引きこもってしまう原因って、すごく大雑把に言ったら自己否定の気持ちなんではないかなと思うんです。専門家ではないので的外れだったらごめんなさい。引きこもりの引き金になった事情は人それぞれ違うでしょうが、明らかに家庭環境がとか学校や職場で何かあったというような特定し易い場合もあれば、生まれつき自己否定の傾向があったとしか考えられない場合もあるでしょう。前者は環境が改善されれば回復の見込みがあるというわけで、周囲の努力次第できっかけを作り出せる希望がありますが、後者はいわゆる先祖や前世の生き方に起因していると考えられるため、周囲が努力すればするほど本人は自己否定を深めてしまい、終いには回復不可能な状態にまで追い込んでしまう可能性もあります。回復のきっかけになり得るのはそれこそ愛の奇跡(オリジナル・ラブ「月の裏で会いましょう」)だけという話になりかねません。引きこもりの程度が重い人ほどいわゆる繊細さん (Highly Sensitive Person) の傾向があるだろうと考えますと、引きこもりにはスピリチュアルな要素があると言って言えなくもないのでしょうが、引きこもる人は必ずスピリチュアルだとまでは言えませんし、私が思うのは、回復のきっかけがスピリチュアルな内容であって欲しいということです。単なる理想論になっちゃいますが、自分の中にある自己否定の気持ちを見つめそれを変えることが出来た人や、もう一度生きてみたいと思わせてくれるような立派な生き方をしている人との出会いが回復のきっかけになって欲しいと思います。自己否定の根本原因は本当の自分を知らないことにあるので、他のすべての人生経験と共に霊的に成長する方向に持って行く必要があるということです。
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まやかし
まやかしと言ったら、言葉巧みな売り文句で期待を煽るけれども中身があんまりないとか、最悪の場合嘘である、というようなものを指すと思うんですが、スピリチュアリティというのは基本的に目に見えないものを取り扱っている以上、まやかしと本物を区別するのに何年もかかるのが普通ではないでしょうか。しかも、具体的に何かに成功するといった結果が伴った場合でも、努力して自分が何者かに「なる」とか新しい要素が加わってパワーアップするというようなことは、心理学などで言う「アイデンティティの確立」や「自己実現」の範疇であり、人にもよりますがスピリチュアリティ本来の方向性を妨げてしまう可能性もあります。と言いますのも、スピリチュアリティで「本質」と言ったら、生まれる前からある性質を意味します。それが不変のものかどうかは哲学の議論になりますが、ともかくそれに「なる」ための努力は必要ありません。問題は自分がそれだと思ってないことだけです。で、あいのほしの解釈をお話ししますと、あなたの本質は何かをやりたくて、その目的のために作り出されたペルソナと言いますか仮面を着けて生まれて来ているわけです。仮面と言いましても、生年月日やどこの誰として生まれたというような刻印のことでありまして、今の常識では生きている間に取り外すことは出来ないものです。やりたいと思っている役割を演じるために始めからペルソナを与えられている上に、さらに輪を掛けてあなたはあれだこれだと定義を付け加えて行ったら、それが外面的な定義であろうが内面的な定義であろうが、本質にとっては邪魔になってしまいます。ペルソナとしての自分を強化する動機になる付け足しはすべてこだわりであり、本質の意志を素直に実行しようとする上での妨げになるということでございます。生まれる前からある本質があなたなのだとしたら。スピリチュアル的に自己を完成させるための定義もすべてまやかしなのかも知れない、という話になって参ります。誤解のないように付け加えますと、本質の意志を実行するとは、関わる人全員を幸せにする生き方のことです。
自分を知る
どういう訳か持って生まれた性格というものがある私たちですが、性格というのはご先祖様やいわゆる過去世の思いから多くが構成されていると言っていいでしょう。いつか浄められ叡智というようなものに昇華されるのを待っている思いがありますが、埋もれたまま知覚されることがなければ、私たちはそもそもそれが存在するということに気づきません。体との繋がりの中で感覚されて初めて、私たちはそこに何かがあることに気が付くことが出来ます。意識の上に表面化する必要があるわけなのです。体の感覚や症状あるいは感情が混沌としていて、それを意識の上でしっかり捕らえ切れない場合に有効なテクニックがいくつかあります。フォーカシングやプロセスワークの「チャンネルを切り替える」動作は画期的な発見だったと言えるでしょう。調べてみたい感覚や感情があったら、まずそこに気持ちを向けることで、自動的に気が流れて行くという理解が基本になります。次に使える手は、精神世界ではよく「呼吸を通す」と言ったりしますが、そこの部分に息を吸い込むイメージをすることです。あるいは、そこの部分で息を吸ったり吐いたりするイメージをします。もちろん実際にそんなことは出来ないので、ただのイメージなんですが、気が流れることでその感覚や感情がより鮮明になることを企図しているわけです。よくよく感じるということが一番大事です。その次に出来るのは、チャンネルを切り替えてさらに調べることです。それに味があったらどんな味だろう? どんな匂いがするだろう? 触ったらどんな感触だろう? どんな音がする? 色や形は? という風に内なる五官を開いて調べます。想像すると言ってもいいでしょう。充分に鮮明に捕らえることが出来たと思ったら、その次に出来るのは、その感覚や感情に一番ぴったりな言葉を探すことです。自分の中で本当にしっくり来る単語やフレーズを見つけます。こういう一連の動作は多くの場合、自分を知るために必要ですし役に立ちます。ただ、それによって特定の結果を期待したり、心理分析的に原因や理由を探ろうとしたりしない方が望ましいです。自分を知ろうとするのが本来の動機であって、その中に何らかの利益を求める心を入り込ませないのがベストだと思います。
心理学と宗教
心理学と宗教がお互いを補い合うというのが理想的な行き方だと思います。心というのはいわゆる物質と同じように取り扱うことはできないので、いわゆる科学的研究方法をそのまま適用することはできないわけですが、実証的に進めて行く必要があるという点では、科学もスピリチュアリティもまったく同じだと思います。反証可能性と言うそうですが、ある仮説を立てたら、それを証明する方法と共にそれに反証する方法をもあれこれ同時に考えつつ、実証的に研究することが大切だそうです。ところが心理学も宗教も理論が先行するきらいがあり、反証されかねない新しい事実を好まない傾向が、みなさんもご存じの通りあるようです。断言する根拠は?と聞くと、だいたいが「高名な先生がそう言ったから」という理由なのです。心理学から行くにしても宗教から行くにしても、自分の人生を通じて実証するという心の態度が必要ではないでしょうか。自分で体験し得ていない理論について「これはこういうことなのです!」と断言してはいけない、というのが当たり前のようで重要な態度だと思います。集合意識のようなものがある、というのが理論だとすると、自分の心もその集合意識に繋がっていることになります。集合意識の中にある特定の情報にアクセスする方法があるはずで、そういう事実を実証的に自分で体験し得てはじめて、生きた知識になるのではないでしょうか。(既にスピリチュアリティを学んでいるみなさんが)これから心理学を学び始めるなら、まず前段階としてケン・ウィルバーさんの『万物の歴史』が、西洋の学問の発展を概観するのに役立つと思います。でまず最初に、ハコミセラピーとプロセス指向心理学の基本的な手法を先に身に付けてしまうことをおすすめします。それから、ウィーン学派と言うんでしょうか、アドラーさん・フロイトさん・フランクルさんがそれぞれ顕在意識・潜在意識・霊意識に対応している、と大雑把ながら見ることができるので、三人の著作を満遍なく読みながら、心理学の知識を人生にどう生かして行きたいのか、(偉そうな言い方で申し訳ありませんが)自分の頭でよく考えて方向性を見極めるといいと思います。
信念体系のワーク
自分が事実として受け入れている内的現実の総体のことを、精神世界では信念体系と呼んだりしています。自分が信じていることを変えれば現実を変えられるんだ、という考え方が生まれており、その具体的な方法については諸説あるわけです。自分が何を信じているのか自分で認識する必要がある、というのが最初のステップになります。信念体系というのは基本的に潜んでいて、全体像をいきなり掴むことは難しいんですが、常日頃ちょくちょく思う思い方の癖、何かの出来事への感情的な反応、慢性的な体の症状などとして表に現れているものなのです。そっから糸を手繰って自分はこんな風に信じているんだなと認識するに至れば、それを変えるという選択肢が出来るわけなのです。表面的にまったく現れていない思いというものもあり、特定の出来事をきっかけに、自分の中にあるとも思っていなかった感情が出て驚くということもあります。出て来たときが浄化のチャンス、と有り難く思えたら素晴らしいのであります。では自分が固く信じて来た思いの内容を変えたいと決めた場合、どうしたらいいのでしょうか。世界平和の祈りや安定打坐の中に消して行くことをお勧めしています。心をきれいに磨いて行くことが現時点で一番重要と考えておりまして、それは普通一夜にして起こるものではなく、こつこつ地道に成し遂げて行くものであると感じております。
夢の解釈
眠っている間に見る夢をどう解釈するかにはいくつもの説があって、実際にいくつかの種類に分類できるように思います。今回お話しすることはすべて仮説ですので、本当のところはみなさん自身の体験から確かめて行って欲しいと思います。まずはその日に見たり聞いたりしたものごとと、そこから連想されるものごとを、脳が記憶を整理する過程で夢に見る、という説明です。これはだいたい誰でも経験していて納得できると思います。また、子供の頃など昔の出来事を解釈し直すために夢に見る、というのもだいたい誰でも経験していると思います。明らかに今の人生で経験した出来事ではないけれど、極めて明確なストーリー性のある夢を見た場合は、いわゆる過去世の記憶を再解釈している可能性は充分にあると思います。次に、例えば同じ運動を繰り返している夢は筋肉を修復するために見ている夢、通路を通っていたり上下に移動したりする夢は血管や神経の調整(霊的なエネルギーも含む)のために見ている夢、というような説があります。これもかなりの可能性でその通りだと思います。では、あらゆる解釈を拒むような、脈絡のないデタラメな夢はどうでしょうか。ある覚者(五井昌久先生)の説によりますと、潜在意識に蓄積された過去世をも含む過去のよくない想いが、現実に現れる前に夢の中に現れることによって、浄められ消えて行く働きであるということです。つまり、人生上の困難な出来事として現実化する前にご守護様に消してもらっている、というありがたい働きなのであります。例えば自分だけが楽して儲かり、恋愛も思いのまま、というのはスピリチュアル的に見れば、自分も他人も害するよくない想いということになります。夢占いからするともの凄い吉兆と言われるようなシンボルを夢で見ても、たいがいの場合は本当によいこと起きるわけではない理由の一つかも知れません。儲かったらみんなが良くなる目的に使おう、恋愛はお互いに心が浄まり高まって行く相手を選ぼう、と本心から思っているような人は、それが現実になってもらわなきゃ神様も困るわけですから、夢の中に現れて消えて行くということは絶対にないと思います。夢占いというのは基本的に、これから起こるものごとを夢から判断するという主旨ではないでしょうか。私の経験では、もし予知夢というものがあるとしても、それを見られる人はかなり限られているのではないでしょうか。最後に、ご守護様が人生のヒントというか教訓として見せてくれる夢というのが実際にあります。このカテゴリーの夢だけが、唯一解釈のしがいのある夢ということになって参ります。自分ではまったく思いも寄らぬアイデアを受け取ることができるからです。
アーノルド・ミンデル『自分さがしの瞑想』
西洋と東洋をどちらもよく理解している人はあまりいない。たまにいても評価されない。正しく評価できる人がいないからである。アーノルド・ミンデル博士(1940-2024)の提唱するプロセス指向心理学が、しかるべき評価を受けているとは言い難い理由は、そんなところかも知れない。「動いているスピリット」とも言うべき「プロセス」を信頼することが鍵になるが、このプロセス自体を科学的に定義することがまず困難ではないかと思う。私たちの現在の人格である「一次プロセス」は、未来からのメッセージである「二次プロセス」に常に脅かされているが、多元的な意識の構造とか、プロセス自体が私たちをどこに導こうとしているのかといった難問に、容易に答えは与えられない。そうした基礎理論上の性格はあるものの、この本で明らかにされる瞑想法は、(静座して心の動きを観察するといった)基本をかじったことさえあれば、誰でも十分に理解し実践することができるものである。逆に、瞑想中に(繰り返し)浮上する雑念や妄想を無視することなく、メッセージとして受け取るべし(瞑想したい私が一次プロセスで、入って来る邪魔が二次プロセスで、両者間の葛藤を眺めているのがプロセス自体と言える)と書いてあるので、仏教やヒンドゥー教の瞑想を極めた上級者にはおすすめしづらい。しかし、ここからスタートする恵まれた初心者だけでなく、すでに瞑想に親しんでいる人も、道しるべになり得るヒントを本書の中にたくさん発見できるはずである。
※本書だけではプロセスワークの瞑想法が具体的にイメージできない場合、同著者の『うしろ向きに馬に乗る』(春秋社、1999年)を副読本にするとよい。
ベッセル・ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する』
高等教育では、心理学は基礎から始めて臨床に進むという順番になっている。だが、心理学に興味を持った一般人は、長い時間をかけて基礎から積み上げるのではなく、心理学が実際どのように役に立つのかを一番先に知る必要がある。そこで手引き書を探すわけだが、あまりに選択肢が多く、なかなか困難である。精神病理学は荷が重すぎるし、かと言って、科学的な根拠が明確でないカジュアルな流行本も好ましくはない。一般人にとって心理学はやはり臨床が肝であり、具体的にどんな可能性があるのかを分かりやすく教えてくれる本が必要であろう。PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されるかどうかは別として、人は誰でも、大なり小なりトラウマを抱えて生きているものである。この本のテーマはトラウマであり、それゆえ絵空事のような学問としてではなく、自分自身や身近にいる人に引きつけて理解することができる。専門知識がない読者を想定して説明してくれるので、視床、扁桃体、前頭葉、ミラーニューロン、エピジェネティクス、脱感作といった用語を初めて聞く場合でも有用な知識を得ることができる。多くの臨床例が取り上げられるが、当然気楽に読める内容ではない。臨床心理学に進もうかどうか漠然と考えている若い人にとっては、この本を読むことが、自分に向いているか否かを判断するための格好の試金石にもなる。セルフヘルプ本ではないので、読者が自分で実践する目的には書かれておらず、あくまで臨床家の存在を前提にしているが、トラウマの治療法としては、断片化した感覚や感情を認識し、解離した経験を統合するトップダウン型の方法と、リズミカルな動きやツボのタッピングといった経路で、脳幹の警報システムを解除するボトムアップ型の方法とがあり、両方を併用することで一層効果が上がるという。もちろん投薬治療の可能性も否定されてはいない。幼少期の虐待やネグレクトが人生を大きく狂わせ、ひいては多くの社会問題の根本要因になっているという研究が示され、支援のための仕組み作りを著者は訴えている。