哲学はたしかに、苦痛が最後の言葉とはならず、苦痛から生の蔑視が生み出されないために、複数の地平線を開くことを可能にしてくれます。
多くの人にとっては当たり前のことが当たり前でない人にとっては、ものごとはまったく違って見える、ということは忘れられがちな事実である。スイス生まれのアレクサンドル・ジョリアン(1975-)は、脳性運動機能障害というハンデを負いながら、ヨーロッパの伝統的な教育課程において哲学の学士号を取得した正統派である。ヨーロッパの一般的な若者の間では、哲学とは基本的に生活とは無関係であり、上流階級や中高年層が余暇に楽しむものと考えられているらしい。しかし意外と言うべきか、著者にとっての哲学はあくまで実際的な学問なのである。常日頃苦痛を伴うリハビリをすることを余儀なくされ、リハビリを諦めるという選択は半ば自殺と同じ意味を持つという条件の中で、彼にとって生きることは(家族の協力なしでは成り立たない)継続中の闘いであり、自閉し孤立したくなる誘惑に抗って人間に「なる」とは、常に前進し心を高めることである。当然、共感し喜びを見つけることが一番大事な仕事であり、プラトンやスピノザやニーチェは、そのために前に進むことを可能にしてくれる武器や道具を提供してくれる先人である。本書以降の著者は三児の父親になり、西洋哲学の範疇を出て(スワミ・プラジニャーンパッドによる)不二一元論や禅にも出会い、ますます思索を深めている模様である。今現在フランス語圏における気鋭の思想家と言ってよいだろう。