努力することの大切さというのは、スピリチュアリティでも同じことが言えると思います。しかし、努力の矛先を間違えると詰まらない結果に終わってしまいます。体操の初心者がいきなり一番難しい技をやろうとして、死ぬ気で練習しても出来るようにはならないのではないでしょうか。基礎から一歩一歩積み上げて行く必要があるかと思います。瞑想をやるにしても、目をつぶって心を静める練習に始まって、次は体をリラックスさせる練習、それが出来たらヒプナゴジアと呼ばれる体は眠っていて心は目覚めている状態に止まる練習、それが出来たら今度は体の自発的な呼吸のリズムに統一する練習というように、一つ一つの段階に分けて理解する方が確実です。いきなりやれと言われて出来る人はほとんどいないのではないでしょうか。その瞑想も自分の実相が体ではないことを悟り切るための準備体操であって、その悟りも最終的に本心そのものを生きるための準備体操です。見当外れな努力だったらしない方がマシという訳で、指導者はその人その人の段階に合った手順を指し示せなければいけません。かと言って、段階を踏んで瞑想の道を進まなければいけないという決まりもないんですが、その人に合った契機というものがあることは確かです。教えであれ方法であれ、自分に合ったものにどうしたら出会えるのかと言ったら、結局、自分が人生で何を達成したいのかという意図がどこまで純粋であるかに懸かっていると思います。人によっては避けられない事情で遠回りする場合もありますが、そんなことは大した問題ではありません。
Étiquette : 瞑想
あいのほしの瞑想
これからお話しすることは、数多ある瞑想についての考え方の一つに過ぎないことを、まず最初に言い添えておきます。で、あいのほしが考える瞑想というのは、何か特定の結果が期待できるものではなく、強いて言えば、単に「休む」ことであります。神秘体験とか、こういう体験が出来るはずだ期待して瞑想するとなると、それだけで本来の瞑想からは離れてしまうように思います。方法としては、理想を言えば背筋を伸ばし、足を組んでただ座るということになります。機能的な障害があったりして体の痛みに気を取られてしまうようなら、別にどんな姿勢でも構いません。で、何も考えないでそのまま座っていられるんであれば、それだけで完璧な瞑想です。難しい理屈を付け足す必要はありません。次に、何も考えない状態にはならなくても、座ってるうちに心が静かになるという人は、心を集中する訓練をします。ヴィヴェーカーナンダさんの『ラージャ・ヨーガ』という本に書いてある方法を参考にしているんですが、心を集中すべき場所は二つありまして、一つ目は頭のてっぺんから15センチくらい茎が伸びて黄金の蓮の花が咲いているイメージで、その蓮の花になっている感じで集中します。二つ目は胸の中心に炎が燃えているイメージで、その炎になっている感じで集中します。炎の色は何でもいいんですが、青がおすすめです。一度の瞑想で蓮の花と炎を同時にイメージするんじゃなくて、蓮の花なら蓮の花、炎なら炎のどちらか一つに集中します。イメージを使うんですが、映像をイメージする訓練じゃなくてあくまで心を集中する訓練なので、そのものに成り切るのがポイントであります。最後に、座っているといつの間にかくだらないことをあれこれ考えているという人は、その考えを紙に書く練習をします。「またくだらないことを考えてしまった」と書くという意味じゃなくて、具体的に何を考えていたか思い出して書くということです。すべての思考には理由がありますが、いい悪いを判断するためとか、心理を分析するためとかいうんじゃなくて、何の期待もせずにただ書き留めます。自分が何を考えているのか自分で認識することの意義を甘く見てはいけません。頭を休ませることが目的だとすれば、漫然と考えごとをしながら座ってるくらいなら昼寝でもする方がいいのです。自分の考えを認識することによって、理想を言えば心の中身が自然と整理されて、だんだん静かに座れるようになって来ると思います。
瞑想の道
どの道を行っても最終的には瞑想に集約されるという訳で、王道というような意味でラージャ・ヨーガと呼ばれているそうです。瞑想のようなものが自然に起こるようになる、という言い方がより正確かも知れません。心というものは何かを強く求めているうちは自制することが出来ません。抑圧して潜在意識内に封じ込めようとしても、別な経路で爆発してしまうわけです。なのでやりたいことは気が済むまでやり抜くという一応の方法を採るわけであります。で、飽きてしまうかより良い何かを見つけたりすると、心は掴んでいるものを放すということが自然に起こります。心の停止とまでは行きませんが、静かになるとか落ち着くという瞑想状態が期せずして起きるんであります。感覚を断ち切るということは文字通り絶命を意味していて、普通そこまで行くことありませんが、感覚に心を捕らわれなくさせるというのが、瞑想が深くなって行くプロセスであります。特別な才能がなくても誰でもここまでは来られるのです。誰でも心の平安を得られるのであります。ただ、潜在意識に溜まっているものの大小は個人によりますので、そこの難しさだけがあるのです。七〜八時間平気で瞑想していられる、それが苦になるどころか楽しくて仕方がないという人は、他の道には脇目も振らずに瞑想の道を行くのが合っています。で、悟りや光明というのは私たちの努力で到達できる境地の遥か彼方にあるものであり、人間の側に選択肢がある訳でもありません。基本的に望んで得られるようなシロモノではないので、心に興味を持たせないようにするのが良いと、あいのほしではおすすめしています。
中村天風の心身統一法
『幸福なる人生』
現在、目の前に立って教えを授けている人間に対しても、自分の心の中でもって、壁をつくっちまうからいけないんだ。私とあなた方と大した差はありゃしないぜ。ただ、ここに立っているか、そっちに座っているかだけなの。
天風会(初期の名称は統一哲医学会)は1919年に成立しているが、本書に収められている講演はすべて戦後のもので、中村天風(1876-1968)が命を賭けて作り上げた「心身統一法」の基本原理が読みやすくまとめられている。人間は誰でも、「病」「煩悶」「貧乏」と自ら縁を切り、幸せになる力を与えられていると言う。ただし、ただ期待して待っているだけでは誰も物にはならない。「観念要素の更改」「積極精神の養成」「神経反射の調節」と言い方はやや古めかしいが、極めて具体的な方法論があり、各方面に実際に物になった人を多数輩出して来た事実こそが、これらの方法に妥当性があることを証明している。敢えて分類するとすれば、伝統的なラージャ・ヨーガから形式的な部分を取り除き、日本人向けに組み立て直した内容と言えるだろう。しかもそれで完成としないで、医学的発見を取り入れつつさらに前進しようとしていた点は特筆に値する。心身統一法は、これからの日本のスピリチュアリティの叩き台であると言いたい。
『真人生の探究』
これを分り易く要約すれば、霊性の満足を目標とする創造の生活とは、常に「人の世のためになることをする」ということを目標とする生活なのである。(中略)そしてこれをたやすく実現せしめるためには、出来る限り、人のため、世の中のためになることを言い且つ行うということを、自己人生のたのしみとするという気分になることである。
未だに精神世界では、自説を装飾するために都合の良い学説のみを援用するのが悪しき慣例になっているが、天風は医学・栄養学・哲学・心理学・心霊学など、一つだけ取っても極めるのが困難な学問をいくつも基礎から勉強している。「人間とは何か」「いかに生きるべきか」という根本問題への一つの答えとして総合的に組み立てられた「心身統一法」の基本原則が、百年も前に既に成立していたのには驚くほかない。天風が自ら著した数少ない著作の中で、最も基本と言われているのが本書である。天才の思考プロセスを是非味わってみて欲しい。
『盛大な人生』
どんな場合でも感謝にふりかえてごらん。すると、この心のもつ歓喜の力は、これはもう何とも形容のできない人生のエクスタシーを感じる事実となってあらわれてくる。また、それを求める必要もない。報いを求めちゃいけない。自分の生きてるあいだ、何ともいえない楽しさ、朗らかさ、おもしろさの絶えざる連続だというような生き方にしなきゃあ。それがとりもなおさず、人の生命と宇宙本体の生命との調子を合わせるダイヤルになるんだよ。
心身統一法の高度な段階として天風会員に贈られた講話をまとめた一冊。天風は禅門の人ではなかったが、禅で言うところの悟りに直入するためのいわゆるダイレクトパスをも説いていた。「安定打坐(あんじょうだざ)」と呼ばれる瞑想法がそれである。宇宙の進歩的方向に貢献しないなら意味がないと考え、悟り(有意実我の境)そのものを目的にしなかったところはいかにも天風会らしい。ならば、なぜ瞑想する必要があるのか。それは、純一無雑な意識の大元に立ち返り、心を休ませてあげることで、命の本然の力が湧き出るためだと言う。ここまで噛んで含めて説明してくれる指導書は、私が知る限りでは他にない。
『力の結晶』
吾は今 力と勇気と信念とをもって甦えり、新しき元気をもって、正しい人間としての本領の発揮と、その本分の実践に向わんとするのである。
吾はまた 吾が日々の仕事に、溢るる熱誠をもって赴く。
吾はまた 欣びと感謝に満たされて進み行かん。
一切の希望 一切の目的は、厳粛に正しいものをもって標準として定めよう。
そして 恒に明るく朗かに統一道を実践し、ひたむきに 人の世のために役だつ自己を完成することに 努力しよう。
誦句とは、天風の霊性心から出て来た言葉をそのまま書き留めたもの。意味も分からず呪文のように繰り返し唱えていればいい事が起こるということではなく、言葉が示している中身を確実に自分のものにすることが本来の意図である。まさに天風哲学の結晶と言えるものであるので、心して受け取るべきであろう。本書は、それぞれの誦句に込められた真意を、天風本人が説き明かして行く構成になっている。
アーノルド・ミンデル『自分さがしの瞑想』
西洋と東洋をどちらもよく理解している人はあまりいない。たまにいても評価されない。正しく評価できる人がいないからである。アーノルド・ミンデル博士(1940-2024)の提唱するプロセス指向心理学が、しかるべき評価を受けているとは言い難い理由は、そんなところかも知れない。「動いているスピリット」とも言うべき「プロセス」を信頼することが鍵になるが、このプロセス自体を科学的に定義することがまず困難ではないかと思う。私たちの現在の人格である「一次プロセス」は、未来からのメッセージである「二次プロセス」に常に脅かされているが、多元的な意識の構造とか、プロセス自体が私たちをどこに導こうとしているのかといった難問に、容易に答えは与えられない。そうした基礎理論上の性格はあるものの、この本で明らかにされる瞑想法は、(静座して心の動きを観察するといった)基本をかじったことさえあれば、誰でも十分に理解し実践することができるものである。逆に、瞑想中に(繰り返し)浮上する雑念や妄想を無視することなく、メッセージとして受け取るべし(瞑想したい私が一次プロセスで、入って来る邪魔が二次プロセスで、両者間の葛藤を眺めているのがプロセス自体と言える)と書いてあるので、仏教やヒンドゥー教の瞑想を極めた上級者にはおすすめしづらい。しかし、ここからスタートする恵まれた初心者だけでなく、すでに瞑想に親しんでいる人も、道しるべになり得るヒントを本書の中にたくさん発見できるはずである。
※本書だけではプロセスワークの瞑想法が具体的にイメージできない場合、同著者の『うしろ向きに馬に乗る』(春秋社、1999年)を副読本にするとよい。