ジャン・クライン『われ在り』

二十世紀フランスが生んだ二大霊的指導者の一人、ジャン・クライン(1912-1998)。(ちなみにもう一人はアルノー・デジャルダン。)妻子のある医師であり音楽家でもあったが、思うところがあり1950年代に一人インドを旅し、奇跡的な経緯で伝統的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)と、カシミール地方に古代から連綿と伝わるシヴァ派(ヒンドゥー教の宗派の一つ)のヨーガを会得した。帰国後は広く欧米にその教えをもたらし、パリ五月革命に代表される価値観の転換に寄与したとも言え、後継者としてフランシス・ルシールエリック・バレを残した。現代のネオ・アドヴァイタの中には、シンプルに表現され過ぎていて、インド哲学の知識がない限り的外れな理解が生まれる可能性のあるもの、あるいは、西洋哲学の枠組みの中で再解釈され、意味が歪曲されているように思われるものなど、要するに傍流に変化しているように見えるものもあるが、この本はもともとのエッセンスを見事に抽出していると言って差し支えないだろう。インド哲学をある程度知っている欧米人に向けて語られているが、難しい専門用語やキリスト教との比較に頼らないため、私たち日本人にも分かり易い。ときおり曖昧な表現が使われているからといって何となくフィーリングで読むのではなく、まずは書かれている内容を論理的にきちんと理解するように努力し、そのあとで指し示されているそれそのものを予感するようにするとよい。

(まだ日本語に翻訳されていないが、ギリシャで行われた講演の記録である Open to the Unknown もよい。)

マヘンドラ・グプタ『大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉』

熱心に、真心こめて神に祈りなさい。そうすれば、あの御方は必ずききとどけて下さる。

十九世紀インドの聖人、ラーマクリシュナ(1836-1886)の言行録である。その教えの内容は、ヨーガの四区分(ラージャ、カルマ、バクティ、ジニャーナ)で言えば、バクティ・ヨーガに分類されると思われる。バラモン階級の生まれでありながら、イスラム教にもキリスト教にも自ら入信し、どの道も同じ目的地に到達すると喝破した、目の覚めるような先覚者であった。愛弟子のヴィヴェーカーナンダが、ヨーガ哲学の真髄を初めて欧米に伝えた事実も有名である。「熱心に求めさえすれば、誰でも神を見られる」と、ラーマクリシュナはいとも簡単そうに言う。ほとんどの人は五官の歓びを幻であると観じて捨て去ることができない。しかしラーマクリシュナは、「俗世に染まってしまえば神を見ることはできない」どころか「世間で暮らしていても神を見ることは可能」だとする。一般人に向かって「世を捨てて修行せよ」とか「この世には何の意味も価値もない」などとはまったく言っていない。絶対不動の実在(神)と、多種多様な現象世界の働き(俗世)は、天秤の重さの同じ二つの皿であり、必要なのは(神を恋い慕う)ひたむきな気持ちだけだ言うのである。ラーマクリシュナには、難しい概念を子供でも理解できる譬え話で表現する才能があり、大人は非常に理解し易い。とはいえ、聖人の言葉を無分別に取り入れるのは望ましくない—神にすがれと言うが、実際には人の情けにすがって生きていただけではないか? 聖人ならばどうして病死したのか? 精神文化はともかくとして、インド社会に具体的にどんな貢献をしたのか? もっともな批評である。だが結論を下す前に、まずは本書を一読して欲しい。あらゆる意味で、すべての宗教の本質がここに要約されている。

※上記の文庫版はベンガル語原典からの抄訳である。全五巻の完訳はラーマクリシュナ研究会による編集を経てブイツーソリューションから刊行されている。