瞑想の道

どの道を行っても最終的には瞑想に集約されるという訳で、王道というような意味でラージャ・ヨーガと呼ばれているそうです。瞑想のようなものが自然に起こるようになる、という言い方がより正確かも知れません。心というものは何かを強く求めているうちは自制することが出来ません。抑圧して潜在意識内に封じ込めようとしても、別な経路で爆発してしまうわけです。なのでやりたいことは気が済むまでやり抜くという一応の方法を採るわけであります。で、飽きてしまうかより良い何かを見つけたりすると、心は掴んでいるものを放すということが自然に起こります。心の停止とまでは行きませんが、静かになるとか落ち着くという瞑想状態が期せずして起きるんであります。感覚を断ち切るということは文字通り絶命を意味していて、普通そこまで行くことありませんが、感覚に心を捕らわれなくさせるというのが、瞑想が深くなって行くプロセスであります。特別な才能がなくても誰でもここまでは来られるのです。誰でも心の平安を得られるのであります。ただ、潜在意識に溜まっているものの大小は個人によりますので、そこの難しさだけがあるのです。七〜八時間平気で瞑想していられる、それが苦になるどころか楽しくて仕方がないという人は、他の道には脇目も振らずに瞑想の道を行くのが合っています。で、悟りや光明というのは私たちの努力で到達できる境地の遥か彼方にあるものであり、人間の側に選択肢がある訳でもありません。基本的に望んで得られるようなシロモノではないので、心に興味を持たせないようにするのが良いと、あいのほしではおすすめしています。

仕事の道

行動や行為を通じて神に至る仕事の道というのがありまして、インドではカルマ・ヨーガと呼ばれています。成功や報酬を期待することなく、世のため人のためになる仕事を全力でやる態度というのは、実は神様の気持ちとまったく一緒なので、知らず知らずのうちに神様と一体になってしまうという方法なのであります。自分を犠牲にしろという意味に聞こえてしまい兼ねないんですが、そうではなく、自分も他人も同じように大切にするのが神様の気持ちなので、自己犠牲的な態度というのはカルマ・ヨーガからはやや離れてしまいます。ここで、例えば年収が一千万円あったとして、それをどう配分して使うのが正しいのか、という実際的な問題が持ち上がります。自分と家族のためにそこから三百万円使うのは多いのでのでしょうか、少ないのでしょうか。一千万円をまるまる放棄するという考えもありますが、そうすると今度は自分が誰かに養ってもらわない限り生きていられないことになり、仕事の道としては正しくありません(出家している場合は別)。では、自分の生活費を差し引いた残りのお金をどう使ったらいいのでしょうか。困っている親戚を助けるのがいいでしょうか。慈善団体に寄付するのがいいでしょうか。それともどこかの事業に投資するのがいいでしょうか。神様の視点を持ち合わせていない限り、何が正しくて何が正しくないのか判断するのが難しいのではないでしょうか。ですがそこは常識的な判断でいいんであります。家族を助けるのはいいことですが、いくら家族を喜ばせるためであっても、宝石をやたらに集めたり別荘をいくつも持ったりするのは、カルマ・ヨーガの観点ではよくありません。自分の知り合いや地域のために、できる範囲でお金を使うのはいいことです。自分が好きで得意なことを、一番世の中のためになると思う方向で生かして行くのはいいことです。で、その結果を期待しちゃいけないということなんですが、そこが一番難しいところで、私たちは大概どんなに頑張っても、ちょっとは期待してしまう気持ちを消せません。それができる人だけが仕事の道で完成するわけでありまして、他の道を行った人と比べて、人々を感化し育てる力がとても強いのが特徴です。世の中を変えて行く力になるわけです。

知識の道

若いうちにしか出来ない、と言うと異論が出るかも知れませんが、やる気とエネルギーが必要だからこそ、若い頃に取り組むべきなのが知識の道、インド哲学で言うジニャーナ・ヨーガであります。これは私が思うに、どうしても知りたいと思うことを研究し尽くし、どうしてもやりたいと思うことを気が済むまでやり尽くすことによって、結果的に神に至る方法であります。「私とは何か」というのが有名な問いですが、これを公案のように考え続ければいいわけじゃなく(それが唯一知りたいことである場合は別)、私が思うに、自分の中にある疑問を虱潰しに解いて行く必要があります。疑問が多ければ多いほど一生懸命学問しないといけませんが、その度合いは人によります。気力がなくなって中途半端で終わってしまうのを、こだわりが取れたからだと言い訳してはいけません。知的な探究だけじゃなくて、海外旅行のようなことも含めて経験してみたいと強く思ったことは実際にやらないといけません。気力がなくなって何となく満足した気持ちになれば終わりということではないのです。なので十代二十代、せいぜい三十代までに集中して行う必要があるわけです。四十代以降になると、社会的な条件や個人的な理由で実行が困難になるのは明らかなことだからです。知識の道は、いわゆる知的好奇心、知りたいという気持ちが人一倍強い人に向いています。もともと知的な関心が薄い人、ものごとを知りたいとあんまり思わない人には合いません。ただ、教養としてジニャーナ・ヨーガがどういうものなのかを知っておくことは誰にでもお勧めできます。教養があるのとないのとでは、長い目で見るとやっぱり差が出て来ます。カジュアル過ぎる本だと全然違う方向に誤解してしまう可能性があるので、ここはヴィヴェーカーナンダさんがお書きになったものを読むのが一番適切だろうと思います。すらすら読める類いの本ではありませんが、読んだら読んだだけのものが必ずあります。

信愛の道

インドに信愛の道と言うかバクティ・ヨーガというのがあって、これは神の属性を多く顕している人を信仰することによって神に至る方法のことを言います。キリスト教では本質的にこの道を辿ります。ヒンドゥー教は信仰の対象になっている神様がいっぱいいるので、日本人は八百万の神と同じような意味での多神教なんだろうと誤解してしまいがちなんですが、ヒンドゥー教では神の化身をバクティ(信愛)の対象にしていると理解するのが正しいと思います。カトリックでお気に入りの守護聖人を信仰したりするのは、日本人としてはご利益目的のお守りとまったく同じか似たようなもんだろうと解釈しているフシがありますが、守護聖人もまたバクティを捧げる対象として置かれていると理解するのが正しいでしょう(私たちとは歴史が違っており、それゆえ遺伝が違います)。何も知らない私ですから間違っているかも知れないですが、歴史的に見て日本にバクティが現れたことはなかったように思います。少なくとも大きな流れになったことはなかったようです。だからこそ、インド・ヨーロッパ語族の宗教文化の中にある信仰を、日本人は一種の思想や哲学と捉えてしまうのであります。信仰というのは考えではなく生き方であって、バクティとは命を捧げることです。この経験が欠如しているために、日本人はこの分野で大いに遅れを取っているのです。神の化身を信仰するのと、ロックスターや映画俳優を熱烈に信奉するのと、どこが違うのかと言いますと、大衆文化的なアイコンは楽しさや狭い意味での自由を象徴しているのに対し、化身というのは誠実さ、美しさ、調和というような性質を顕現する完全な人間であると言えます。神に心を向けることが目的のすべてなので、信仰の対象が例えば、歴史的事実がはっきりしない伝説的な人物のイメージであっても構わないんであります。手掛かりの多い最近の人物である方がやり易いと言えますが、自分が心の底から尊敬し信頼できる人を選ぶ必要があります(信仰は自発的なものであって、押し付けたり押し付けられたりするものであってはいけません)。いろいろ調べてほんのちょっとでも疑いが残る人物は、バクティの対象として無論ふさわしくありません。そのような人を誰も見つけられないなら、信愛の道は自分に合っていないと結論して良いでしょう。他にもいくつか道はあり、特に有名なものでは知識の道(ジニャーナ・ヨーガ)があります。

ハズラト・イナーヤト・ハーン『音の神秘』

音楽は神への最短かつ最も直接的な道です。しかし人は、音楽とはいかなるものであり、それをどう用いればよいのかを知らなければなりません。

ヴァドーダラー(インド)出身でイスラム神秘主義(スーフィズム)の大家であるハズラト・イナーヤト・ハーン(1882-1927)の著作集の中で、一番有名な第二巻を全訳したもの。主要テーマは音楽であるが、音楽家のために書かれたわけではなく、一般の人をスーフィズムの世界に招待するといった内容である。著者は主要な宗教すべて(特にヒンドゥー教)に精通しており、これから神秘の道に入って行く人に盤石な基礎を与えてくれる(逆に、イスラム教の歴史や哲学を知りたい人には向いていないと言える)。すべては一つのものから発せられる音色、高さ、長さ、強さ、リズムといった特徴を備えた音(波動)であり、五大元素(地、水、火、空気、エーテル)によって表現され、内的な感覚によって聴かれる現象であると説く。そこから規則正しいリズムの効果や、音と音との協調関係(ハーモニー)という考えが導かれる。文章そのものに調和が取れており美しく、かつ経験に裏打ちされていることが感じられ、大師が(何を意味するのであれ)確かに「完成」の域に到達していたことを窺わせる。一見すると、具体的なメソッドは何も書かれていないようであるが、大師の言葉もまた音楽であり、それを本当に「聴く」努力をし、スーフィーたちの気息に同調するつもりで読んでみると、実はいろいろ方法が指し示されていることが理解される。感受性が磨かれれば、その分だけさらに多くの実りを得られる読書体験になるだろう。

マヘンドラ・グプタ『大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉』

熱心に、真心こめて神に祈りなさい。そうすれば、あの御方は必ずききとどけて下さる。

十九世紀インドの聖人、ラーマクリシュナ(1836-1886)の言行録である。その教えの内容は、ヨーガの四区分(ラージャ、カルマ、バクティ、ジニャーナ)で言えば、バクティ・ヨーガに分類されると思われる。バラモン階級の生まれでありながら、イスラム教にもキリスト教にも自ら入信し、どの道も同じ目的地に到達すると喝破した、目の覚めるような先覚者であった。愛弟子のヴィヴェーカーナンダが、ヨーガ哲学の真髄を初めて欧米に伝えた事実も有名である。「熱心に求めさえすれば、誰でも神を見られる」と、ラーマクリシュナはいとも簡単そうに言う。ほとんどの人は五官の歓びを幻であると観じて捨て去ることができない。しかしラーマクリシュナは、「俗世に染まってしまえば神を見ることはできない」どころか「世間で暮らしていても神を見ることは可能」だとする。一般人に向かって「世を捨てて修行せよ」とか「この世には何の意味も価値もない」などとはまったく言っていない。絶対不動の実在(神)と、多種多様な現象世界の働き(俗世)は、天秤の重さの同じ二つの皿であり、必要なのは(神を恋い慕う)ひたむきな気持ちだけだ言うのである。ラーマクリシュナには、難しい概念を子供でも理解できる譬え話で表現する才能があり、大人は非常に理解し易い。とはいえ、聖人の言葉を無分別に取り入れるのは望ましくない—神にすがれと言うが、実際には人の情けにすがって生きていただけではないか? 聖人ならばどうして病死したのか? 精神文化はともかくとして、インド社会に具体的にどんな貢献をしたのか? もっともな批評である。だが結論を下す前に、まずは本書を一読して欲しい。あらゆる意味で、すべての宗教の本質がここに要約されている。

※上記の文庫版はベンガル語原典からの抄訳である。全五巻の完訳はラーマクリシュナ研究会による編集を経てブイツーソリューションから刊行されている。