ローマ帝政期のタガステ(現アルジェリア)の生まれで、ヒッポ・レギウス(現チュニジア)の司教になったアウグスティヌス(354-430)が、自身の半生を告白するという内容である。神の前で告白すると同時に、人に読んでもらうためにも書いているという、二重の構造になっており、後の時代の「告白文学」とは若干性質を異にしている。若き日のアウグスティヌスは、(当時のアフリカ的気質を思えば奔放とまでは言えないものの)情熱的な青春、マニ教や星占いへの傾倒、親友との死別など、さまざまな経験を積んで行く。どうすれば立身出世できるだろうか、結婚はどうしたらよいのかといったことで、普通に思い悩みながらも、類い稀な知性に恵まれていたために、ミラノで今で言う国立大学教授のような要職に就くことに成功する。しかし、「真実」への渇きは尋常ではなかった。スピリチュアルな「探究者」が誰でも通り抜けるであろう典型が、そこには見出せる。彼は自分自身に問いかける。そこには、生きている限りいつかは問わざるを得なくなるすべての問い—自分はどこから来たのか、どう生きればよいのか、何のために生きるのか、神とは、そして悪とは何か—が含まれている。結局、生きているという事実と何の関わりもない哲学に、何の意味があろうか。それから、かの有名な目覚めが起こり・・・単に罰を恐れるがゆえに品行方正な人と、非行も含めて、ありとあらゆることをやり尽くした後に改心(キリスト教の文脈では回心)した人とでは、理解の深さが全然違うのは、いつの時代も共通なことかも知れない。アウグスティヌスが、神の光—それは比喩であって可視光線のことではないと彼は書いている—を、理知的な次元ではなく、「体験した」あるいは「見た」ことは確実である。今やさまざまな資料を比較検討することが可能な私たちは、それは例えば、禅で言うところの「一瞥」や「見性」と本質的に同じであったことを、容易に読み取ることさえできる。この本には、自らの魂と対話しながら読み進める(もともとの意図はこれである)のと、字面通りに受け取るのと、二通りの読み方がある。事実、カール大帝の時代には、アウグスティヌスの著作は「法律的」に解釈されたらしい。キリスト教の前提知識は必要ない(むしろない方がよい)ので、ぜひ心で読んで欲しい。この本を読めば立派な哲学者になれるとは思わない。しかし、西洋文化を本気で理解したいと思ったら、一番最初に精読すべきと言い得るほどの名著である。