強さ・賢さ・綺麗さ

性質としての神様を表す「真・善・美」という言葉が宗教界ではよく語られますが、これが人間界ではいわゆる本当の愛や正しい行いや「和を以て貴しと為す」の精神として現れるなどとされます。ところが現実社会では高い理想を貫き通すことは難しく、目指したとしても「正直者が馬鹿を見る」結果になるに違いない、と考えられているのはみなさんもよくご存じの通りです。人間を肉体だけの存在と思い込んだところに諸悪の根源がある、とは大方の宗教で一致する見解かと思いますが、人間社会を有利に運ぶことを目的に、あくまで人間界でのみ通用する真善美の下位互換バージョンが多くの人によって考案されるに至ったと言えましょう。あくまで仮の喩えですが、真善美に対して「強さ・賢さ・綺麗さ」がこの世で成功するための最強の条件である、と多くの成功哲学が一致して説いているのではないでしょうか。そこに神秘学で言うところのいわゆる幽界の生物からの助力を当て込むオカルト要素を加える場合もあるでしょう。強くて賢くて綺麗な人はまず間違いなく成功できる、とはほとんどの人が同意するところでしょうし、事実その通りです。しかし肉体のみに基盤を置く弱肉強食的なやり方なので、この路線で行くとこの世は早晩滅んでしまうというところが問題なわけです。どんなものにも存在している限り真善美の片鱗は含まれているものなので、自己利益や自己中心性を限界まで極めた人がひっくり返って上昇したという前例は過去にはあったように思われますが、私たち全員がそのやり方で行く余裕はもうない、というのが実情かも知れません。

引きこもり

引きこもってしまう原因って、すごく大雑把に言ったら自己否定の気持ちなんではないかなと思うんです。専門家ではないので的外れだったらごめんなさい。引きこもりの引き金になった事情は人それぞれ違うでしょうが、明らかに家庭環境がとか学校や職場で何かあったというような特定し易い場合もあれば、生まれつき自己否定の傾向があったとしか考えられない場合もあるでしょう。前者は環境が改善されれば回復の見込みがあるというわけで、周囲の努力次第できっかけを作り出せる希望がありますが、後者はいわゆる先祖や前世の生き方に起因していると考えられるため、周囲が努力すればするほど本人は自己否定を深めてしまい、終いには回復不可能な状態にまで追い込んでしまう可能性もあります。回復のきっかけになり得るのはそれこそ愛の奇跡(オリジナル・ラブ「月の裏で会いましょう」)だけという話になりかねません。引きこもりの程度が重い人ほどいわゆる繊細さん (Highly Sensitive Person) の傾向があるだろうと考えますと、引きこもりにはスピリチュアルな要素があると言って言えなくもないのでしょうが、引きこもる人は必ずスピリチュアルだとまでは言えませんし、私が思うのは、回復のきっかけがスピリチュアルな内容であって欲しいということです。単なる理想論になっちゃいますが、自分の中にある自己否定の気持ちを見つめそれを変えることが出来た人や、もう一度生きてみたいと思わせてくれるような立派な生き方をしている人との出会いが回復のきっかけになって欲しいと思います。自己否定の根本原因は本当の自分を知らないことにあるので、他のすべての人生経験と共に霊的に成長する方向に持って行く必要があるということです。

まやかし

まやかしと言ったら、言葉巧みな売り文句で期待を煽るけれども中身があんまりないとか、最悪の場合嘘である、というようなものを指すと思うんですが、スピリチュアリティというのは基本的に目に見えないものを取り扱っている以上、まやかしと本物を区別するのに何年もかかるのが普通ではないでしょうか。しかも、具体的に何かに成功するといった結果が伴った場合でも、努力して自分が何者かに「なる」とか新しい要素が加わってパワーアップするというようなことは、心理学などで言う「アイデンティティの確立」や「自己実現」の範疇であり、人にもよりますがスピリチュアリティ本来の方向性を妨げてしまう可能性もあります。と言いますのも、スピリチュアリティで「本質」と言ったら、生まれる前からある性質を意味します。それが不変のものかどうかは哲学の議論になりますが、ともかくそれに「なる」ための努力は必要ありません。問題は自分がそれだと思ってないことだけです。で、あいのほしの解釈をお話ししますと、あなたの本質は何かをやりたくて、その目的のために作り出されたペルソナと言いますか仮面を着けて生まれて来ているわけです。仮面と言いましても、生年月日やどこの誰として生まれたというような刻印のことでありまして、今の常識では生きている間に取り外すことは出来ないものです。やりたいと思っている役割を演じるために始めからペルソナを与えられている上に、さらに輪を掛けてあなたはあれだこれだと定義を付け加えて行ったら、それが外面的な定義であろうが内面的な定義であろうが、本質にとっては邪魔になってしまいます。ペルソナとしての自分を強化する動機になる付け足しはすべてこだわりであり、本質の意志を素直に実行しようとする上での妨げになるということでございます。生まれる前からある本質があなたなのだとしたら。スピリチュアル的に自己を完成させるための定義もすべてまやかしなのかも知れない、という話になって参ります。誤解のないように付け加えますと、本質の意志を実行するとは、関わる人全員を幸せにする生き方のことです。

正しい生き方

正しく生きるという考えは特に伝統宗教では重要視されていまして、正しく生きるための道標にならなかったら一体何のための宗教なのか、と一般的に多くの人が考えていると思います。ところがよく考えてみますと、私たち全員が基本的に「自分は正しい」と思って生きており、正しいと思っている中身が何であれ、人生はおおむねその通りに展開する傾向がございます。「すべてあなたが正しい」というのが現実であり、だからこそ問題なのです。正しいのと幸せは別物だからです。そこで私などはスピリチュアルな情報を参考にしようと考えるわけですが、誰の影響でどういう生き方をしようが、結果に対して責任を取ってくれる人は誰もいないということは、厳重に気をつけるべき点だと思うんです。一人一人がよく考えて生き方を決めなければなりません。というわけでスピリチュアルな情報に触れる際に常に念頭に置くべきポイントをおさらいしますと

  1. 何が言いたいのか
  2. 最終目的は何なのか
  3. 具体的な方法はあるのか
  4. 言っている本人がその通りの生き方をしているか

の四点になります。もちろん私の話も含めて、そんなような着眼点を踏まえた上で批判的に聞くようにしますと、理想を言えば間違いはだいぶ減るんじゃなかろうかと思います。この話はこれからもしつこいくらい繰り返すことになるかも知れません。

スピリチュアルの学び方

そもそもスピリチュアリティを「学ぶ」という姿勢で始める人は少ないかも知れません。生まれつき深い信仰心がある人は、スピリチュアリティの本質を最初から分かっているので、誰に教えられなくても自分に一番合う道を見つけて突き進んで行くものです。それなら何の問題もないのですが、そういうケースは稀であって、ほとんどの場合、自分の興味と必要性に合致する教えに自然と引き寄せられるものだと思います。例えば普通は見えないものが見え聞こえないものが聞こえる人は、霊能や超能力開発の方向に行くのが当たり前ですし、特殊な感性を持ちいわゆる変わり者扱いをされて生き辛さを感じている人は、「そんなあなたにも価値がある」と認めてくれる教えに安心したりもしますし、社会的に成功体験をしている人は、願望実現的な教えが「自分の成功をうまく説明してくれている」と感じ満足したりもします。それの何が問題だと思うのかと言いますと、結局何が目的なのかがハッキリしないまま年月が過ぎ去ってゆき、周囲の人間から「あの人はすごく変わった、立派になった」と評されることもないまま「スピリチュアルが趣味」の人生で終わってしまうきらいがある点であります。一般的な大学の教育課程では、出来る限り幅広い分野を概観した上で、だんだんと自分の専門を狭めて行くのが良いとされていると思います。いきなり専門だけやると、良い研究に必要な視野が得られないからではないでしょうか。スピリチュアリティでも同じようなことは言えまして、伝統宗教や成功法則やヒーリングなど幅広い分野を選り好みせずにちょこっとずつ学ぶことによって、理想を言えば「スピリチュアリティの目的はこういうことなんじゃないか」というのが自分なりに見えて来ると思います。そうなれば自分に合う道を自分で判断できるようになるんじゃないでしょうか。

資本主義とスピリチュアル

のちの時代になって今のスピリチュアル業界を振り返ると、いかにも資本主義的な内容が大部分を占めていたと評されるに違いありません。人間は霊的な存在であるというのがスピリチュアリティの大前提ですが、その教えは生身の人間が説くものであり、その人が生きている時代の色づけがなされることは至極当然と言えます。霊性の高さのみを語れば物質世界の存在意義はないことになり、この世での繁栄のみを語れば霊性はないことになります。この世を大調和世界に持って行くためには精神性と物質性の両方を理解する必要があるため、スピリチュアルティーチャーさんというものは本来的にダブルスタンダードで生きているように見えるのが当たり前なんであります。スピリチュアルな教えそのものは本質的に収入を得るための手段ではないのですが、スピリチュアルティーチャーさんも人間として生きて行かなければ活動が出来ません。が、往々にしてそれが行き過ぎてしまうようです。本格的な経済哲学が分からないのでごく初歩的な話になって申し訳ありませんが、資本主義社会の枠組みの中で勝ち組と言ったら、働かないであるいは自分の好きなことだけをして豊かで健康で文化的な生活を送れる人だと思うんです。(その生活を手に入れるためにしたかも知れない)権力闘争の話はここでは除外します。で、資本主義社会の中で成功しているように見える、要するに生活に余裕があるように見えるティーチャーさんというのが、今のスピリチュアル業界の一つのアイコンになっているようです。すると、楽して豊かな生活をしたいがためにその仕事をやっているように、終いには見えてしまう場合もあります。現実問題として、お金に困っているように見えるティーチャーさんの話なんか誰も聞きたがらないし信用しない、という理由もその背後にあります。いずれにせよ、この業界は(政治と同じくらい)本来の目的を簡単に見失ってしまいやすい環境にあると言えるでしょう。

わだかまり

一般の人にスピリチュアルの基本は何かと聞かれた時に「心のわだかまりを解くことです」と答えたら一番分かり易いかも知れないです。何故かは別として、わだかまっていることって誰にでもあると思うんです。心が何かを掴んでいるってそれだけでストレスなんですが、それが自覚できない場合も多くあるでしょう。だけど、心がスッキリすれば楽だろうということは誰でも想像できるのではないでしょうか。わだかまってしまう原因はいくつもあるとは思うんですが、大きいのは「自分の望み通りの結果が得られないこと」であり「他人が自分の望み通りに動いてくれないこと」だと思います。一つには、自分が思った通りの結果になり、他人が思った通りに動いてくれれば、わだかまりは解消されるのではないでしょうか。でもよく言われている通り、この方法では恒久的な解決にはならないわけです。生きている限り思い通りにならないことなんて次々と出て来るからです。そこで「望むことをやめる」という哲学が登場して参りますし、それもそうかも知れません。しかしながら私が思うに、多くの人が見落としているのが「人生の目的を正しく設定すれば、たとえ物質的な環境が思い通りにならなくてもわだかまりは残らない」という事実です。つまり「みんなの幸せを願う心を作り上げること」を目標とし、人生はそのための訓練の場なんだと信じることが出来れば、何が起ころうと起こるまいと有り難い経験と思える余地が生まれるというわけで、これはスピリチュアルの極意に相当する部分でございます。

極端と拒絶

極端なことを言う人って嫌がられるか面白がられるかのどっちかだと思うんですが、スピリチュアルってとかく極端な話が多いわけです。哲学の議論としては極論を持ち出す方が切れ味が鋭い訳で、悟り系では「始めからあなたはいない」とか「意味なんてない」といった話であったり、願望実現系では「一週間以内に大金が入る」とか「三日以内に恋人と結ばれる」といった話が多用されます。そういう風潮に対して私がとやかく言う資格はないのですが、一つ気になるのは、極端なことを主張しているティーチャーさんの心の中には、何かへの強い拒絶の気持ちが根底にあるように見受けられることです。あるティーチャーさんが他のティーチャーさんを揶揄したりそれとなく侮辱したり、果ては両者が実際に言い争ったりする場面に出くわすこともあります。これがかつては宗教戦争にまで発展した心の動きなんだろうと思います。何のための宗教活動なのかが見失われている、という笑うに笑えない状況が今日まで続いて来たわけです。伝統宗教の文脈の中では、我欲に溺れる人間の言い訳を一刀両断にする教えというのは長い目に見れば真実と言えるのですが、長期的な目で見た正しさとティーチャーさんが取る態度は分けて考える必要があります。スピリチュアルな教えというのは考えではなくそのティーチャーさんがどういう生き方をしているかにあるので、考えだけが一人歩きしている場合には、それこそ極端に言えば政治思想に分類するべきではないでしょうか。ものすごく頭のいい人以外は理解できない複雑な教義を持つ道よりは、誰にでも理解できる簡単な実践方法を持つ道の方がいい、とあいのほしでは考えております。

思考の習慣

人生を根本的に変えようと思ったら考え方を根本的に変える必要がある、というのは精神世界ではよく聞く話かも知れませんが、実際にやってみると、ものの考え方が大きく変わったと自分では思うのに人生はほとんど何も変わらない、という経験をする人が多いんじゃないでしょうか。常日頃考えている内容が人生を形作るとは、どういうレベルで言っているんであれ一般的に承認される話ではないかと思うんですが、自分にとって当たり前の思考というのは困ったことにほぼ生まれつきのもんだと言えまして、つまり気分や体質によってその大枠が決まっているんであります。ですから自分にとって当たり前だと感じる思考の枠の外にある思考に出会った時、自分にとって何の脈絡もない不自然なものと感じるため、無意識的に無視するということが自動的に起きるわけであります。「話としては分かるけど納得は出来ない」という状態です。要するにただ新しい考えを入れるだけでは、自分という枠の外には出られないことが多いようです。自分という枠を広げるには、ただ考えるだけではなく新しい経験をして、体が変わり心が変わるという過程を経ることが必要なのは、子供がどうやって成長するかを見れば当然なことのようですが、ただ新しい経験を求めさえすればいいかと言うとそうでもなく、極めて冒険的挑戦的な生き方をしている人が、ある一定の水準まで来るとそれ以上本質的に成長しないように見える場合もあります。精神世界では、思考の上で自分が一生安心して暮らせる哲学的な枠を見つけて自己完結することを悟りと称する人もいます。私の意見では人間の枠というのは自己保存の本能のことです。どういう訳か人間には次の段階があらかじめ用意されており、それが自分の枠を超えるということであって、自分の枠を超えると自分のことを一切考えないで他者のために生きるようになりますが、それが自然の成り行きだと一般的に認知されていないのは、実際にそうなった人が今まではかなり少なかったからだと思います。詭弁を弄するようですが、人間が成長すれば自然に次の段階に進むと言っても、どうやったら人間的に成長できるのかは人それぞれ違います。考える、経験するのどちらか一方ではなくて、両輪で進んで行く必要があるかと思います。

あいのほしの開運法

開運したいと思わない人がいるでしょうか? という訳で、あいのほしが考える原理原則をお話しするべきではないかと思いました。世の中に数多い開運法の中でも、表面上は悪意のない些細なおまじないのようなものに「こっそり得したい」とか「自分だけ儲かりたい」という感覚が根底にある場合もあり、そうした言動が長い間いくつも積み重なって行くと、それだけでスピリチュアリティの本道から大きく外れてしまうかも知れません。とは言え私の考えが正しくて他の人の考えが間違っているという主張ではありませんので、いつものように参考程度に聞いてください。また私のは開運法と言いましても、まさしくプロセスそのものが答えという「方法」でして、結果を保証することは一切出来ませんのであらかじめご了承ください。まず一つ目は、明るく楽しく暮らすことです。人にもよりますが、ただ生きているだけで嫌なこともトラブルも必ず起きて来ますから、常に明るく楽しい気分を維持するのは相当大変なことですが、開運するしないに関わらず、それが出来たら人生において大きなプラスになるだろうとは容易に想像がつくのではないでしょうか。明るく楽しい雰囲気は人に好い印象を与え、社会に出て評価されやすくなります。ですからこれが目指すべき一点目です。二つ目はもっと難しいですが、素直になることです。これは自己利益のために権謀術数を用いないということで、要するに自分の有利になるような小智才覚を身に付け始める前の子供のような状態です。本心に立ち返るというスピリチュアリティの基本でもあり、素直になったら損をすると信じられている大人の世界でこれが出来たら称賛に値します。しかし私たちの観点からすると、素直であることで本来の運命を拓くことになるという意味で、結果的に一番得(徳になる)ということでございます。三つ目は、自分が本当に欲しいもののためなら全力を出すということです。誰でも生きている限り欲しいものがあると私は思っているんですが、なぜか精神世界には最小限の努力で最大限の成果を手にするという考え方が少なからず出回っているので、三つ目は念のために付け足すことにしました。好きなことをやるのに努力を惜しむ理由はないと思うんですがいかがでしょうか。考え方は本当に人それぞれでして、財産や権力を得るためならどんな手段でも講じる人は、そういう心を与えられてそんな風に生きているだけで、自己奉仕の生き方も事実として許されているし間違っているということではないのです。

学成り難し

「少年老い易く学成り難し」と言いますが、スピリチュアリティも一面では学問でありますので、同じことが言えるわけであります。みんながそうだと思いませんが、若い頃はとかく自分を過大評価しがちでありまして、ちょっと本を読みセミナーに通った程度で「分かった」と思ったり、中には「到達した」と思ったりする人もあります。ですがそのまま大成する人は稀でして、大抵の人は中途半端に終わるというのが、冷静になって考えれば「世の常」といったところではないでしょうか。中年になってようやく「自分は本当は何も分かっておらず、またこの先に進んで行く能力もない」と気づく場合があります。かなりガッカリな気づきですが、このように思えた人は実はいい線を行っているのでございます。誰からも評価されず結果が出ないというのは、この世では死活問題でもありとても辛い状況ですが、ここが踏ん張りどころと言いますか、運命の分かれ道がハッキリ現れる時と言えます。この時点で人生に失敗しているにも関わらず、それは過去の因縁が相当悪かっただけのことであり、あくまで人間として何が正しいのか、何が最高の理想なのかを考えて生きて行こうと結論できる人は、既にゴールしているのと同じであります。つまりスピリチュアリティの基本が身に付いたことを意味します。一方で、スピリチュアリティの基本が「永遠の生命」を信じることであり知ることであるはずなのに、どんな手段を使ってでも生きているうちに結果を出さなきゃ意味がないと焦って、学問の世界で実験結果やエビデンスを捏造する人が出るように、スピリチュアル業界でも出来ないことを出来るように嘘をついたり、ないものをあるように偽装したりして、人集めや商売に成功する人が出たりします。多くの人がやっている方法だから大丈夫とは限りません。普通よりも良い意図を持ってスピリチュアルな道に入ったにも関わらず、普通の仕事をするよりもむしろ悪い言動を積み重ねてしまい後々面倒臭い羽目になるとしたら、それは本当に気の毒だと言わねばなりません。究極的に間違った道はないと言えますが、遠回りすることになると思います。

性の力

精神世界に限らず世の中には開運や願望実現のための方法が各種取り揃えられているわけですが、その中でも自分の性的な魅力をアピールすることが人間社会を有利に渡って行くための最強のツールであるということは、誰にでも分かる当たり前の事実だと思うんですがどうでしょうか。ところがスピリチュアル業界では、引き寄せの法則を始めとする願望実現系の教えを説くティーチャーさんが、自身の性的な魅力をあからさまに、あるいはそれとなく利用することで人集めに成功していることが誰から見ても明らかな状況なのに、あくまでも自分で教えを実践した結果成功したという体で活動されているように見受けられます。あくまでもこの世の生活に限った話ですが、性の力を活用するのが一番の近道です、と私だったら話すと思います。性の力というのは結局大元のエネルギーに直結しているので、社会的に成功している人は大なり小なり必ず利用していると言えます。性的魅力は本来内側から放たれる輝きなんですが、もちろん外部的な要因で疑似的に高めることも出来ます。そうじゃなかったらファッション業界や美容業界の規模がこんなに大きいはずはありません。何事もやり過ぎは良くないですが、自己満足じゃなくて相手に好い印象を与えることが目的である限り、身だしなみや服装に労力とお金をかけることにマイナスの要素は一つもありません。不謹慎な言い方になって申し訳ありませんが、人生を有利に運びたいと思うならまず第一に取り組むべきことは、人に好い印象を与えるために自分が出来る範囲で外見を磨くことだと思います。自己肯定感を上げるために整形するとかブランド品を身に着けるという意味ではありません。

物差し

何かものごとを始める時に、どこを目指すのかとか何が最終目的なのかということは、一番先に定めるのが当たり前だと思うんですが、スピリチュアル業界ではそこが意図的にぼかされていると考えられる場面によく出くわします。それゆえそのスピリチュアルティーチャーさんの人生観とか、どんな物差しでものごとを測っているのかということを、功利主義ではないんですがまっ先に見極めることが必要ではないでしょうか。ものごとをあんまり哲学的に考えない日本人には慣れない作業です。するとスピリチュアルを謳っていても、結局は楽してお金が儲かり、理想の恋人をゲットすることが最終目的であるという、要するに本当なら自己啓発に分類されるべき物差しが、少なからず混じっていることが分かります。なぜならそうしないと人が集まらず、商売にならないからです。開運とか生活水準の向上を望まない人はいないのですし、その教えの性質を見極めた上で自分に必要だと思えば上手に取り入れればいいし、要は自分で選択しているという自覚が絶対的に重要だということを私は言いたいわけです。どんなにいい教えであっても、自分が心から納得していない段階で言いくるめられ誘導されて、すべて上手く行くという夢を見させられている状態は、長い目で見ると望ましくないと思うからであります。ではどんな物差しを持っているのがいいかというのは難しい問題なんですが、「自分が悟る」とか「自分が開花する」というような、最終目的の主語が「自分」であるものに関しては、私の意見では要注意とだけ言っておきましょう。同様に「神が私になる」ならいいんですが、「私が神である」という発想も要注意だと思います。