こじらせるという言葉は、ちょっと前までは「風邪をこじらせる」くらいしか使い道がなかったように思うんですが、最近では自分では望まない状況が長引くという意味でも使われるようです。ここで「独身をこじらせる」という表現を考察してみましょう。これは自分では結婚したいと強く望んでいるのにも関わらず、どう頑張ってもなぜかご縁が訪れない、そうこうするうちに年齢的にも手遅れになりつつある、というような状況だと思います。そういう状況にある人に対して、精神世界ではけんもほろろに「あなたが本心から結婚を望んでいないからだ」という答えをする場合がありますが、それがそのまま事実であることはまれであって、実際には本心から望んでいるのにも関わらず、何らかの理由で結婚することへの恐怖や不安の思いが強いのが原因であることがほとんどである、と私は思います。恐怖や不安の思いが解消されれば結婚できることになりますが、一般的にどうすればいいのか誰も知らないので、こじらせてしまうわけです。本来人生に手遅れということはないのですが、残念ながらそのままで終わってしまう人も多いのが現実ではないでしょうか。と言いますのも、恐怖や不安の思いを消すことが簡単に出来ない場合が多いからだと思います。簡単に出来るなら人生楽勝と結論できますけれども、あいのほしでお話ししているような方法を実践しても、かなりの時間が掛かるのが普通だと思います。そうこうするうちに年齢が上がって来てしまい、物質的現実としては、言いたくはありませんが諦めるより仕方がない、という結果になることも間々あるのでございます。これは結婚に限らずどんな内容にも当て嵌まることです。人それぞれ持っている条件(潜在意識と遺伝子)が違うので、スピリチュアリティでは原則物質的な成果を確約するべきではなく、心の成長と満足が得られればそれでよし、という落とし所で決着すると考えて置いた方が良いと思います。
Année : 2023
感性と理性
感性と理性のどちらを大事にすべきかという話は、どの分野でもだいたい同じような結論に行き着くかと思います。例えば外国語を習得しようとする場合、勘が良くて「習うより慣れろ」というタイプの人は、会話がどんどん上達します。文法書を読んだりして頭で理解しようとするタイプの人は、いつまで経っても喋れるようになりません。ところが、感受性と積極性に頼って急速に喋れるようになっても、頭で理解していなければ徐々に忘れてしまいます。従って辞書を使って勉強を続けることによって初めて、言語の習得は盤石なものになるのではないでしょうか。そういう訳で第一に感性、それを理性で補う必要がある、というような結論になると思います。まったく同じではありませんけども、スピリチュアリティにおいても似たようなことが言えまして、頭で理解してるだけだと本物になりません。筋が良くて感覚的に入って行ける人だけが何らかの悟りを得ますが、そのままでは「私は悟った」という思いが無自覚的に膨れ上がって慢心してしまい、徐々にその悟りを失ってしまうケースが数多く見受けられます。失わないとしても知識がなければ適切な言葉で表現できなかったり、偏った情報を他人に伝えてしまったりする虞があります。「自分はすべてを知っている」と思うような時は危ない、と老子のような大覚者も戒めている(『道徳経』71章)のですから、何らかの悟りを得た後も、それを盤石なものにするためには精進する必要があると言えるのではないでしょうか。
リセット
何もかもなかったことにしたいと思う瞬間もあるものですが、すべてを白紙に戻す方法があったら確かに私も知りたいと思います。過去を変えるとかカルマを帳消しにするワークが本当だったらいいと願うこともあります。原因があって結果があるというのは一見明らかなことなんですが、「本当は時間は存在しない」という哲学は大昔からあって、過去や未来が存在しないとすれば、「原因があって結果が生まれる」とか「結果があって原因が生まれる」ということもあり得ないことになります。さらにタイムリープやパラレルシフトが可能であれば、因果律という考えは根本的に崩されることになるでしょう。すると大昔からある「すべては偶然である」とか「良いも悪いもない」という哲学が正しいことになり、人生好きにすりゃいいというのが一番正解に近いという結論になります。ところが私たちの現実はリセットできない仕組みになっているというのが、遅かれ早かれ直面せざるを得ない真実ではなかろうかと私は思います。人間関係リセット症候群で今いる環境から逃げること自体は悪くないんですが、行った先でいずれは同じ問題が起こりがちである、ということがかなり広く言われています。自分が持っている(心の)条件が変わらないからで、五井先生のそのまんま(受け売り)ですが、過去に作った原因が現象として現れて消えるのだから、そういうものと理解して、起きて来たことに捉われなければ同じことは繰り返されない、というのが今も昔も極意ではないでしょうか。起きて来た現象に対して同じ感情を使えば、新たに同じ原因を作ったことになるので、また同じ結果が作り出されるという仕組みです。
不満ベース
褒めるべき所はスルーして悪い部分にフォーカスし、すべてにおいて不平不満を言いがちな人がたくさんいます。とても優れたものを手に入れているのに決して満足しない人もいます。あるいは、明るい話題はスルーして恐怖を煽るニュースや情報にフォーカスし、すべてにおいて自分を守るためだけに行動する人がたくさんいます。必要とあれば攻撃も辞さないと考えている人もいます。不平不満ありき、恐怖ありきで生きるというのが今現在の文化のベースラインであって、そのように生きるのが普通と思われているので、一生そのままで終わるのが当たり前、というのが悲しいけれど現実と言えるでしょう。もともとそうじゃない人は別ですが、せっかくスピリチュアリティに興味を持って実践しても、自分で自覚しない限り不満ベース、恐怖ベースの生き方は変わりません。自覚したところでそれを変える方法は誰も教えてくれないと思いきや、あいのほしでは本の紹介欄やこのポッドキャストでその方法を提示して来ているので、みなさんには知らないとは言わせませんよ。あいのほしで「変わる」と言ったら他でもない、不満ベースや恐怖ベースから満足ベースに変わることを意味しております。悟りや光明を目指して瞑想しても成功するとは限らないし、願望実現しても成長できるとは限りませんが、不満ベースで生きて来たのが今あるものに満足できて、生きていることに感謝できるようになったら、自分でも「変われたな」「成長したな」と思えること請け合いです。一瞬ですべてが裏返ったり、何もかも上手く行くようにはなりませんが、あいのほしの唯一の目的はみなさんに徐々にこれを体験してもらうことであり、それ以外のことではありません。
オカルト
オカルト分野というのはあいのほしでは取り上げて来なかったわけですが、それと言うのも私に知識や経験がないからでございます。そういう不思議な現象そのものには肯定的な立場をとります。霊能、超能力、魔法、異世界、タイムリープ、宇宙人など様々な題材がありますが、それらの報告には当然二種類の体験が混在しておりまして、一つは本人の意識の中でのみ起きている幻覚的体験と、もう一つは他者とも共有し得る実体性を伴った体験とがあります。将来科学的に証明し得るのはいわゆる実体性を伴う体験のみなので、本人にしか分からない幻覚的体験は除外するべきかと言いますと、そうとは言い切れない場合もあります。私が思うに、その体験の中身が何であれ、その人が周りから「最近良い意味で変わった」とか「立派になった」と言われるような、要するに人間性の成長が見受けられるなら、その体験は調査に値すると思います。逆に、たとえ実際に異世界に行ったような場合でも、結果として一般人のオカルトに対するイメージと大差ないような「怖い話」や「ホラー」で片付けられるような体験は、スピリチュアル的には価値がないことになります。とはいえ、オカルトに全然興味のない人がいきなり宇宙人に遭遇したりしたら、その体験がその人の人生テーマであるという場合もあると思います。どんな体験であっても、自分のものの見方が広がり心が豊かになる方向に生かそうとする態度が一番重要であるという点では、他のどの分野とも同じであると言えるのではないでしょうか。興味本位とか面白半分と呼ばれる態度で関わろうとすると危険であることは言うまでもありません。
最も難しい課題
これまでにも何度かお話ししている通り、私の考えるこれからのスピリチュアリティというのは、高尚な悟りを得るのでも魔法のように物質的豊かさを手にするのでもなく、自分の人間性を大事に育て花開かせる中間層を増やす過程であります。これまでの時代は良くも悪くも覚者さんにすべての知識や能力が一極集中していたのに対し、現代の私たちには概してそんな知識や能力は与えられないし、そんな必要もありません。スピリチュアルな活動をしていると、身体的・精神的・社会的な各方面に問題を抱える様々な人がやって来ます。昔の覚者さんの中にはそのすべてに一人で対応できる方もいたのですが、これからは身体的・精神的・社会的な各方面にそれぞれ専門性を持つティーチャーさん同士で助け合う、分散処理型に移行すると思います。ハッキリ言って一人一人のティーチャーさんの力は大したことなくても、志を同じくするティーチャーさんが相互扶助することで、かつての大覚者さんよりも偉大なことを成し遂げることが出来るでしょう。さて、ここに私たちのレベルでは一番難しい課題があり、それはどうでもいいような自分の信条を一旦脇にどけて、お互いに心を一つにするということです。先達の覚者さんが既に成し遂げたことと比べれば、全然難しくなくむしろ簡単なことが、私たちには難しいわけです。何を目的に心を一つにするのかと言えば、もちろん世界平和の実現であり人類の大調和であります。
作り話
変な話になりますが、自伝というのは自分で書くよりも専門の作家さんに頼んで書いてもらう方が、作品としての評価は高くなるのではないかと思います。小説仕立ての方が読み易いし、話の流れが一貫していて、面白くて感動を呼びます。事実を自分で書く形式だと、よほど文才でもない限り読み難く、面白くないし共感を呼びません。これはスピリチュアリティでも同じことが言えます。多くの教典は覚者の言行録と言いますか、ある覚者さんの言動を第三者が書き記したものになるわけです。覚者本人が書いた文章があって比較できると仮定しますと、第三者が書いたものの方が、作品としては優れている可能性が高いのではないでしょうか。しかし、理解し易くしたり、一貫性を持たせるために矛盾点を排除したりして、意図的な改変を加えていると考えるのが自然だと思います。そういう意味で洗練された教典からの方が、二次的三次的な創作物も作り易くなります。要するに、いわゆる覚者さんの話を学者さんがまとめた本からたくさんの二次的三次的なティーチャーさんが生まれ、そうしたティーチャーさんの話は洗練されており優れています。元はと言えば最初の覚者さんの経験に基づいている話なのですから、内容的には正しい場合が多いと思います。だけど実際問題として、内容は良いのに影響力はどんどん小さくなって行きます。良い悪いは別にして、本物は頭で理解するしないに関わらず魂に響き、触れられた以降の生き方が変わってしまいます。内容が系統立っていて説得力があることとは関係がないように思われます。
浮き世離れ
スピリチュアリティというのは高尚なものを扱う、という理解で間違いないんですが、私が思うに、せっかく高尚な気づきを得られても、それを誰にも伝えずにいると、いつの間にか自己満足的な考えに堕してしまうものです。何らかの気づきを得たことで、いわゆる人間生活に全然興味を持てなくなってしまい、誰かに何かを伝えようにも透明人間になったみたいに全然伝わらない、という状況は実在します。過去に多くの覚者がそのような状態になり、世の中に何らインパクトを与えることなく終わってしまったように思われます。スピリチュアリティがそういうものだとしたらとても寂しいと私は思います。仕事をしない、結婚もしない、もちろん子供もいない、という三拍子揃った覚者は透明人間化まっしぐらですし、稀に強烈なカリスマで世の中にインパクトを与えたとしても、本当の意味で人間社会を支える力にはなり得なかった、というのが私の個人的な感想です。あんまり高尚だと私たちが関わりを持てませんし、浮世離れした感じだと私たちは面白い作り話としか受け取りません。これからの時代の覚者は、仕事をしている、結婚もしている、子供もいる、の三拍子が揃っているべきだとまでは言いませんが、実際、覚者と言えども相手あっての役割であることを忘れてはいけないと思います。最終結果が孤独であったり独り善がりになったりすることだったら、その道は本当の道とは言えません。
希望
子供の頃は夢や希望という言葉が好きじゃなかった私ですが、今は夢や希望という言葉を信じられる人が一定数いることを素晴らしいと思うようになりました。光と闇じゃないんですが、大雑把に言うと私たち人間は二通りに分かれてまして、ものごとの良い面に注目する人とものごとの悪い面に注目する人に分かれています。夢や希望を信じられるということは、ものごとは予定調和的に最後は全部上手く行くと知っているからで、ポジティブグループに属していると言えます。夢や希望のようなものが本当に存在するとは思っていない私のような人間は、いわゆる想念が生まれ変わりを繰り返すうちにそういう考えが染み付いてしまったからで、ネガティブグループに属していると言えます。みなさんもお気づきの通り、宗教にはポジティブな人が通る道を説いた教えと、ネガティブな人が通る道を説いた教えの二通りが存在しております。自分がポジティブかネガティブかは生まれて来た時点でほぼ決まっているので、自分に合う方の教えに自然と行く、というのが現実だろうと思います。ポジティブグループの方が道が楽だとは確実に言えるものの、ネガティブグループの方からむしろ大覚者が出ておりまして、どっちが良いとは言えません。私みたいなネガティブな人が途中からポジティブに変われるのかと言ったら、それは根本から変わるということですから相当難しいことではありますが、その機会が与えられた場合は可能ということでございます。最終的にはみんなポジティブになるのかと言ったらあいのほしの解釈では違ってまして、ポジティブとネガティブの中間に来ると思います。ポジティブ寄りの中間の覚者さんとネガティブ寄りの中間の覚者さんがこれまでいましたが、本当に中間に来た覚者さんはこれからの時代の大覚者さんということになるでしょう。
生き場所
大多数の精神世界の教えとはどうしても違って来てしまうんですが、私が教えられたのは、人間というのは自分を必要としてくれる人が身近にいないと文字通り生きて行けないということです。ところが、良縁に恵まれ持てる才能を思う存分発揮して活躍できる人もいれば、悪縁続きで孤独になりそれなりで終わる人もいます。生きることが大事だという意味で「死に場所」の代わりに「生き場所」という言葉をここでは使いますが、自分の命を最大限に生かすことの出来る場所を見つけられる人というのは、例外なくご縁を大切に出来る人だということが言えます。そういう点で、いわゆる職業を斡旋する仕事というのは本来尊い行いであるのです。人との繋がりで成り立つ縁故採用というのが未来のあり方なんですが、私たちの今現在の状態ですと、縁故枠は特定の集団が独占する傾向となり、自由応募枠は遠慮なくずるいことをする人がポストを得やすい傾向となるために、単なる理想論という感じにはなります。生き場所を得るのは人間にとって必要不可欠なことで、そのために今出来るのは、孤独になる方向に行かないように気を付けることくらいしか私には言えません。生き場所というのは心の世界の話ですが、生きている限り現実の場所という意味でもあります。因縁があるのでどこでも良いというわけには行かないんですが、正しい道に入り「何が起きても大丈夫」という心境になることが先決だと思います。
特別
特別という概念は私たちの日常生活の一部になるほどありふれていて、特別な才能とか特別な品のように良い意味で使われる場合と、特別意識とか特権階級のように悪い意味で使われる場合とがあると思います。普通、人や自分が特別だと言う時に、そこに何か問題があると思う人はあまりいないんじゃないでしょうか。ところが、自分は特別だという考えは、人や自分を傷つける極めて有害なものになり得ます。実際に並外れた能力のある人が自分を特別だと思うのなら、少し有害ではあるものの実体が伴っているからまだマシです。ところが子供の頃から特別扱いされて育った人が、実際には平凡であっても自分を特別だと信じる場合があります。無論親は良かれと思って褒めたつもりなのでしょう。だけど突き詰めれば、実体のない特別意識を持った人は社会にとって有害であり、それは人種差別や階級闘争の元となっております。あなたは人より優れているという刷り込みよりも、あなたは人より劣っているという刷り込みの方がさらに有害であり、いわゆる独裁者と呼ばれる人はこのタイプが多いと思われます。精神世界では、あなたの意識レベルは高いとか、あなたの魂はどこ星の出身だとか、実体がないと思われる特別意識を植え付けられる場合があり、そうするといわゆる特権階級とまったく同じように、平凡なものごとに満足しなくなり、自分には不思議な出来事が起こるのが当たり前で、もっと特別な人生になるべきだ、と本気で思い込むようになるのです。これが問題だと気づく人の数は徐々に増えて来ていると感じます。
成長
成長という言葉は人生の重要な要素として語られることが多い割には、成長するとどうなるのかという具体的なイメージをあんまり伴わないのではないでしょうか。成長したいと思わない人は成長しないものです。しかし、成長したいと思っても、実際に何をどうすればいいのか教えてくれる人は少ないのではないでしょうか。スピリチュアル業界では、神秘的な体験をしたりして何らかの状態に辿り着いたことが強調され、そこから成長が始まるという発想がなく、大きな声で言うべきじゃないかも知れませんが、スピリチュアルを知らない一般人から見て立派で尊敬できるティーチャーさんはあまりいない気がします。それよりも、変な話になりますが、不幸な出来事を乗り越えた人が、明らかに人間的に成長したと周囲に感じさせる場面を、多くの私たちが経験すると思います。成長のチャンスは災難の仮面を被って登場するケースが多いので、それに気づいて感謝できるなら最高です。要するに、自分さえ良ければと思うエゴの力が、ある出来事によって強制的に弱められるという経験は貴重です。が、私が思うにそういう機会を望んではいけないと思います。人生がわりかし順調に行っている時にこそ、エゴの力が強くならないように自分で努力するのが理想のあり方です。神秘的な話というのは面白いので、興味を持てばどうしてもそっちの方向に流されて行きますが、スピリチュアリティの本質は最も身近な態度に見出せると思います。
条件
平等というのは法学とか政治学で論じられ、時代と共に解釈や適用が変化する概念であって、人間世界の現実ではありません。私たち一人一人は全然違う条件を持って生まれ付いているので、スピリチュアルな教えをそれこそ平等に与えられても、成功する人もいれば一生かけても成功しない人もいる、という違いが出て来ます。人を傷つけ自分も傷つける言動をする人は、それが生まれ付きの性格として与えられた条件で、取って付けたように神仏に願いを掛けたとしても、そのままでは幸せにはなれません。悪い条件を消して良い条件を増やすという考え方が出来れば、宗教は科学的な内容に進化できます。しかし、どうすれば悪い条件を消せるのかというのが最大の難関です。一つには、人を傷つけ自分も傷つける性格を自覚できるなら、「私のこの悪い思いをどうか消してください」と神様に祈るという伝統的な方法があります。心理療法的に自分を分析することで、「この思いの癖が人も自分も害しているんだな」とハッキリ悟れれば、自然にその思いが消えるというのも一つです。人間の心というのは、自分が損していることが分かれば二度とやらない、という面白い性質があるからです。いずれにせよ、誰もが幸せになりたいと願っているのにそうなれないのは、そうなるためには然るべき条件を満たす必要があることを知らないからで、具体的に一つ一つ理解して実行して行くことが鍵になると思います。
宗教を学ぶ
誰もが宗教を学ぶ必要があるかという問いがあるとしたら—スピリチュアリティは元々は宗教のことなので宗教という言葉を使いますが—あいのほしの答えとしては「一般的には必要ない」ということになります。特に宗教を学問として学ぶ場合には、信仰というものを批判的な立場から考えることになるので、自分の生き方に何らかのプラスになる可能性は低いし、得することもあまりないと言えるでしょう。宗教を敢えて学ぶ必要があるのはそのことに興味がある人でして、そういう人は誰に言われなくても自分から勉強し始めるものです。あいのほしの考えでしかないんですが、一番大事なのは何がどうであれ生命に感謝できることであって、それが出来れば今さら宗教の枠組みの中に入って行く意味があんまりないと思うんであります。私が思うに、有能な人ほど自分の力を信じ易く、自分が人よりも何かを上手く出来るという信念を中心に人生を組み立てる傾向がありそうです。それで成功すれば、自分以外の何かに本気で感謝するということもないかも知れません。生命から独立して自分というものがあり、自分の力で人生を作るという感覚が、いわゆる本当の宗教の理解を妨げる根本原因なんであります。しかし、ものごとを見る自分というものが存在する以上、個人を否定する考え方もおかしな話だと思います。そんなような難しい話をするよりも、生命の善性を信じ、何がどうであれ人生に感謝しようと努力する態度こそが、多くの人に感銘を与える結果になるのではないでしょうか。
職域
どんな職業にも職務の範囲というものは大体定められており、その範囲を超える仕事はやらなくてもいいよとか、場合によってはやってはいけない決まりになっていると思います。お医者さんとか弁護士さんとか、専門性の高い職業ほど職域が厳密に定められていて、やらなくてもいいことをやろうとしてはいけないルールになっているのではないでしょうか。ましてや出来ないことを出来ると言ったりしたら罪になる可能性もあります。ところが、スピリチュアル業界では無知蒙昧の時代でこそ許されたやり方が未だにまかり通っていて、曖昧で大袈裟な言葉で出来ないことを出来るように言うのが当たり前という現状です。もちろん欧米では少し変わって来ていて、「これは医学上のアドバイスではありません」とか「あくまで私個人の意見ですので、あなたがこの知識を適用した場合に起こり得る一切の結果には責任を持ちません」というような但し書きが付けられるようになって来ました。それはそれでどうかという感じもしますが、理知教養の程度が昔と比べて格段に進歩している以上、スピリチュアルティーチャーの職域をハッキリ定義することがどうしても必要になっております。自分の言動に責任を持ちたいと思っているティーチャーさんは実は少数派である、ということもハッキリして参ります。あるティーチャーさんが何を出来て何を出来ないのか、責任の所在についてどう考えているのか、そういった重要事項が明確に示されることで、初めて私たちはそのティーチャーさんについて行きたいかどうか決められると思うんです。
大確信
大確信というのはある種私の好きな表現なんですが、人間はなぜ不幸なのかの根本的理解と、どうすれば良くなるかの具体的方法と、人々を救うんだという一大決心のもと、本心が拓けた覚者に自ずと現れるカリスマ的指導力を意味します。不安や恐怖が全然ないことにより自然に現れる迫力であって、フリや力みの入り込む隙がないのが本来の姿です。で、覚者のそれを努力で真似しようとしたところに、スピリチュアル業界が抱えるすべての問題の原因が集約されるんだろうと思うんであります。覚者への憧れから始まる一連の物真似行為は、潜在意識の中に不安や恐怖が渦巻いている私のような中途半端な人間が、たとえ善意からであっても手を出してはいけない危険なビジネスなんだろうと思うわけです。本来自然に現れるべき態度を頑張って演じるわけですから、やってる本人は多くの人と関わるようになるほど苦しいだろうと思います。頑張って演じているうちにいつか本物になれるんならそれでもいいですが、実際には人も自分も欺いている状態ですから、深みにはまるほど自傷的な生き方になるのではないでしょうか。あいのほしに人を導く迫力はないことはお分かり頂けていると思いますし、せいぜいスピリチュアル業界を案内する役割という位置付けでやらせて頂いております。
基本姿勢
何が目的か?ってみなさんに一番に考えて欲しい問題なんです。スピリチュアリティにおいても、この世界が何の目的に向かっているかってことがすべての教義の根本になっているはずで、そこの部分が曖昧でぼやけていれば、あらゆる行動にも焦点が定まっていないことになってしまいます。ところがスピリチュアリティの歴史を辿ってみますと、宇宙の目的について非常に漠然とした、例えば無限の進化だとか神との合一だとか、具体的に考える余地が全然ないような概念を持って来ていることが多かったようです。あるいは宇宙の目的なんて考えても分からないんだから、人生の意味もまた考えたって仕方がないというような哲学があったわけです。あるいは人間の生活は経済さえ豊かであればあとはどうにでもなるという結論に至り、これは本当のスピリチュアリティではない神秘的生活術に形を変えたわけです。困ったことに、今の世界情勢を見る限り人類は既に滅亡の危機に瀕しており、個人が幸せになるとか個人が悟るといった悠長なことをやってる時間はなさそうだ、という意見に多くの人が同意するのではないでしょうか。かと言って、自分を犠牲にして平和のために尽くせというような雲を掴むような理想を言ったところで、実行できる人はほとんどいないでしょう。そこで、自分の幸せを犠牲にしないでなおかつ世界平和を実現するために実行可能な教えが必要になっているわけで、幸いなことに近年そのような教えがいくつも出ており、あいのほしでも応援しているという訳です。それは哲学とか生き方の一つとするよりは、「こうならないと人類は滅亡するしかないよ」という類いの基本姿勢の話だと思います。あいのほしには色がないし神を信じるべきだというような主義主張もしませんが、人類がこれからも存続しようと思うなら譲れないポイントというものはあり、宗教いかんに関わらず誰でも理解できて実践できるような話を出来たらいいなと考えています。
階級意識
差別とか階級意識というのは微妙な話題なんですが、スピリチュアリティにおいてもカースト制度をはじめ至る所に序列が設けられているのをどう解釈すべきか、避けては通れないテーマになって参ります。第一に、今現在の私たちは子供の頃から誰より上だとか下だとか判断することに慣れており、まさに息をするように自然に順番を付ける性質を持っているということです。良い悪いじゃなく私たちはそんなレベルにいます。第二に、社会的に見ると一人一人の役割の種類や大きさには違いがあるのが本当で、それは本来の社会的序列の正当な根拠であるということです。それと「神の前ではみな平等」という真実は別々に考えられるべきだと思います。リーダーシップを執る人がいるということと、魂が平等であるということは矛盾しませんが、今の社会では矛盾しているような感じになっている、というのが事実だろうと思います。そこがまた、差別をなくすべきというような理想が常に語られるにも関わらず何も変わらない理由ではないでしょうか。現実のどちらか半分しか議論しないから、一向に理解に辿り着かないのは当たり前だと思います。自分に与えられた領分をわきまえて分相応で生きて行く、というのが一言で言えば解決策になりますが、ところがどっこい無神論的な現代人にとってはとても難しい場合もあるのかも知れません。
総合力
スピリチュアル分野にも総合職と専門職という区分けはあり得る話でして、ヒーリングやカウンセリングに特化する人というのもアリだと思います。ただ、心理療法というのは一般的に言って社会に順応して普通の人生を送れることを目指すのに対し、スピリチュアリティはいわゆる神様との繋がりを取り沙汰する点で、目指す方向が違っています。総合職に当たるのは人を導く役割のスピリチュアルティーチャーさんのことで、求められる資質が企業の経営者と似ている点もあります。スピリチュアルティーチャーが人を導く時に出る力は自分の力ではない点は根本的に違っています。スピリチュアリティで自分の努力が必要になるのは、自我欲望の一段上に上がることだけであって、道の途上にいる段階では的外れな理解にしかならないスピリチュアルな知識や経験を求めることではありません。あいのほしの理解では、自我欲望を捨てることは自分の意志ではどうやったって不可能なので、欲望を捨てるという言い方はしたくありません。で、いったん人を導く役割を与えられたら今度は逆に、人間社会に関する幅広い知識や教養を積極的に身に付けることが必要になります。なぜなら一つには、狭い範囲の知識しかなければ実際問題限られた数の人としか縁を持てないからです。もう一つは、幅広い教養がなければ人の実生活に具体的な決着をつける力は出て来ないからです。関わる人全員の人生に良い変化を生み出す力が、スピリチュアルティーチャーにとっての総合力だと思います。
当たり前
霊性の道にいる人が、どうにも成長や変化がないという停滞を感じる場合、まず間違いなく自分が当たり前と思っている思い方に原因があると思います。その代表格が「自分なんかダメだ」という卑下慢の思いで、他人からは「謙虚な人だ」と言われることもあるため、自分で問題だと気づきにくいものです。ところが、自分をスゴイと思うのであれダメだと思うのであれ、自我へのこだわりという点では同じ現象なので、同じ程度に妨げになるのであります。自分をダメだと思う思い方が極端に強い場合、本当にダメな人生になってしまうので、自分をスゴイと思う人の方がだいぶマシであると言えます。いろいろ理由があると思いますが、スピリチュアルに興味を持つ人には自尊心が低い傾向が見受けられます。一つには自尊心とかプライドという言葉に悪いイメージがあると言いますか、良くないものという思い込みがあるからではないでしょうか。だから自分を卑下する態度を問題だと思えないというか、自分にとっては当たり前として板に付いてしまうわけです。卑下慢に限らず、宗教の長い歴史の中で板に付いてしまった自己否定的な態度は、それが結局宗教の目的であるはずの世界平和の実現に貢献していないということを認めない限り、変えられないと思います。もちろん認める必要はないんですが、私の目にはそう映ります。自分は大生命の一つの表現であるという正しい自尊心やプライドが求められます。
中道
中道と言いますと老子の「無為自然」の教えが一番有名ではないかと思いますが、老子の説明だけで分かる人は全然いないんだろうと思います。なぜって具体例が挙げられてないからです。私が思うに老子は哲学的な理想を語ったんじゃなく、無為自然を体現した大覚者だったはずで、言葉で説明するのにむしろ苦労しただろうと思います。それとは対照的に、孔子の教えは具体例が豊富で初心者が入り易い特徴があります。ちょうど顕教と密教に相当するもので、どっちも必要であって優劣をつけようとするのは間違っていると思います。中道ほど言葉で説明しにくいものはないはずで、当然中道を実際に生きている人が必要になって参ります。ところが困ったことに、そういう人に出会える確率は千載一遇と言えるほど少ないわけです。だからこそ、こういう時にはこうする的な説明が色々あった方が私たちには助かると言えます。宗教は結局より良く生きるための一言に尽きるはずなんですが、お互いに争ったりしてどうしてこんなに本末転倒してるんだろうと不思議に思われます。過去の大覚者の言葉を借りれば本質をズバッと言い表すのは簡単なんですが、それを生きるとなればどこまでも奥の深い世界があるので、私たちは今この人生でとにかく入門することが大事です(どこかの宗教に入信するという意味じゃなくて、より良い生き方を実践し始めるという意味)。くどいんですが、悟りと実生活は別という二重基準のティーチャーさんに追随することはおすすめ出来ません。
実力
ほぼすべての仕事において、実力をつけると言ったら知識を得て経験を積むことに等しいと思います。ところがスピリチュアリティではその逆になりまして、知識と経験という名の思い込みやこだわりを全部捨てることが、ティーチャーとして活動をスタートする時点で必要な実力なのです。人間がサバイバルするための能力というのはスピリチュアリティにおいても必要です。しかしそれは、自助努力とか自己啓発に分類されるべきものです。スピリチュアリティと自己啓発はもちろん両立が可能ですが、内容をごちゃ混ぜにしてしまうのは問題だと思います。例えばヒーリング能力や現実を創造する能力を身に付けるという内容はスピリチュアルに分類されることが多いですが、その主目的が自分が健康で豊かな生活を送ることに置かれている限りにおいては、自己啓発に分類されるのが正しいと思います。本当のスピリチュアリティというのは、私の見解ですが、自分のことを一切考えなければ本質に近づいていることになるので、方向が逆なのです。だからと言って、今の時代はまだ自分のことを一切考えないのでは生きて行けないので、自助努力も必要なのです。中庸とか中道と言ったらまさにその通りですが、哲学的に中道を定義しようと思ったらとても長い説明になってしまうのではないでしょうか。自分を空にするところから教えが生まれますが、結局言葉で説明しようと思ったらいわゆる実践知が必要になるという訳です。
無限の可能性
無限の可能性という表現は一般的によく使われますが、スピリチュアル業界でもたまに耳にする気がいたします。人生の壮大さを感じさせますが、水を差すようなことを言ってしまえば、何でも努力さえすれば成し遂げられるとは限らないし、そもそも与えられている選択がそんなに多くない、というのが私たちの現状ではないでしょうか。二十代で音楽家、三十代で建築家、四十代で起業家、五十代で哲学者、六十代で料理人、七十代でダンサー、八十代で政治家として、それぞれ超一流の仕事をした人が実在したとして、その人の口から無限の可能性という言葉が出れば私たちも納得という感じですが、その人でさえも実際は幾つかの可能性を体現したに過ぎないのではないでしょうか。そもそも努力したくても出来ない精神状態にあり、何をどうやっても社会で認められない人というのは存在します。人生の可能性を論じるならば、人の縁の重大さを同時に語らない限り、私が思うに片手落ちなんであります。人間一人では生きて行けないし、可能性というのは然るべき人との縁に触れて初めて花開く、というのが事実なんですが、そこが強調されるどころか語られてすらいないことが多いように見受けられます。私みたいな卑下慢屋は人から認められないので、何をどうやっても成功することがありません。なのでそういう場合には第一に、人とのご縁を大事に出来る精神状態にまでどうにかして持って行く必要がございます。
前提
精神世界というのは結局何の根拠もないような話ばかりなので、とりあえずこう考えてみようとかこう仮定してみようという前提をたくさん設けないと始まらない、という現実面の問題があるわけです。自分で検証するまでは何も信じないという態度は、徹底できれば立派なんですが、その線で行くとリンゴが木から落ちるのだって、世界中のすべてのリンゴの木を見るまで分からない、世界中で一つくらいは宙に浮いたり空に昇ったりするリンゴがないとは断言できないということになり、そんな風に宗教を一から検証しようと思ったら膨大な時間が掛かることが想像されます。私自身は生まれ付きの信仰心がなかったので、どちらかと言うと自分で一から考えるような道を通って来たのです。神はいるとかいないとか頭で考えるような人はそうするしかありません。生まれ付き信仰心があって、導きの力が守っていてくれると何となく感じるような人は、良い悪いで言えば凄くいいということになります。で、あいのほしではお節介にも数々の信念を前提にお話ししているんですが、これは私自身の経験からあった方が楽だと思うものをピックアップしているだけですので、信じる信じないはみなさんの自由にお任せします。主な前提を挙げますと、人それぞれ役割が大体決まっていて、それを果たすことで最終的に人類が大調和するという目的に貢献しますが、自分の肉体を守ろうとする思いが強過ぎると脇道に逸れてしまうため、自分の人生に本来の目的があることを思い出すべきである、というような話です。
答え合わせ
人生の答え合わせという考え方がありますが、年を取れば多くの人がそういう気分になる時があると思います。あの学校で良かったのか、この職業で良かったのか、結婚相手はこの人で良かったのか・・・厳密に言えばやり直すことは出来ないのですから、考えるだけ無駄なわけです。でも、人生すべてが上手く行った人を除けば、答えは出ないのにやっぱり考えてしまいます。電化製品の機種みたいに良いのか悪いのか判断するのにそんなに時間の掛からない問題もありますが、人生の問題というのは、大きなイベントであればあるほど判断するのに長く時間が掛かります。何十年と掛かりますし、最終的に「ダメでした」とか「失敗でした」と認める訳には参りません。どうにかしてメデタシメデタシな結論に持って行きたい、というのが当たり前の感情ではないでしょうか。スピリチュアリティもまったく同じことです。最後に答え合わせをした時に「騙された」とか「無駄だった」という結論にならないように、無理矢理にでも持って行きたいわけです。どんな選択の結果であれ生きている限り巻き返しは可能ではありますが、スピリチュアリティの道に入る前であれば、私の個人的な考えではありますが、終わりから逆算して考えると良いと思います。つまり、人生で「これだけは譲れないこと」を考えてみて、それがスピリチュアルと関係のないものだった場合、そっちを先に一所懸命やって、それが片付いた後にスピリチュアルをやると決めて置くといいと思います。スピリチュアルのためにやりたいことを犠牲にするという態度は好ましくありません。
業界
どんな分野でも業界というものが出来上がりますが、考えてみれば職業団体と言うか職業意識の繋がりと定義できると思います。スピリチュアル業界というのももちろん存在していますが、スピリチュアルも基本商売ですので、他の業界と同じように商売のやり方についてお互いに暗黙の了解を求める、というのが主な方向性ではないでしょうか。実際、スピリチュアルセミナーの形式や集客の仕方には大体の決まりがあると言えます。で、商売というのは商法に従う必要があるのに対し、スピリチュアルには憲法で信教の自由が保証されているため、当然いわゆる悪い人たちがそこの隙間を利用するということが起きているわけです。この業界で有名な先生がやっている教え方や宣伝の仕方が一般常識からどんなに離れていても、後に続く若手のティーチャーさんが「あの先生がやっているんだからいいんだ」と思って真似をする、ということが起き続けています。よく考えてみれば詐欺でしかないことも、閉鎖的な環境では誰も変だと気づかない場合があり、業界全体がそんな雰囲気になって来ればそれが業界の常識になるわけです。「どっぷり浸かる」という表現がありますが、悩みがあって何かとか誰かに頼りたい気持ちになっている時にスピリチュアルにどっぷり浸かるというのは、世間でも言われている通り最も危険な選択です。世間が常に正しいとは限りませんが、親親戚が反対するのは正しい場合が多いと思います。
愛と光
愛と光って近年の精神世界で大人気のパワーワードだったわけですが、その意味するところは結構曖昧だったりします。それこそ無数の定義が可能でしょうが、あいのほしの解釈では光は情報のこと、愛は自分と相手が同じと見ることです。伝統的な解釈では、それが何を意味するのであれ、愛と光に乗って幽玄微妙な天界に「戻る」とか「帰る」というようなイメージが付随していたように私には思えます。瞑想や呼吸法によって振動数を上げて地球を「去る」と言ったり、その裏には苦しみでしかない地上界から自分だけ「脱出する」みたいな、極端に言えばそういう世界観があったりします。表向きは愛と光と言いながら、その実態は逃亡劇という気がしないでもない内容なのです。あいのほしの解釈はその点で大方の見方と違っていまして、私たちは愛と光に乗って別次元に上昇するのではなく、私たちは愛と光を表現することによってこの世界を変えるのだと信じます。ほんの少しの準備の出来た人たちだけを救い上げることによって次世代に繋げようとした昔の覚者さんのやり方を否定するつもりはありません。そのおかげで今の時代があるわけですから。必要な教えがすべて出揃った今、それを個人が悟るために使う時期は過ぎていて、思いの波が多くの人に伝わって行く方法で使うのが正しいように思われます。だって、すべては一つ、自分の幸せと人類の幸せは一つというのが、最初からスピリチュアルの基本だったのではないでしょうか。
意図
自分は何も考えないでただ生きていると思っている人もいるでしょうが、本当にその通りであることはほとんどなく、大部分の私たちは心の中にある何らかの意図を中心に生きていると言えると思います。ところが、この意図が好むと好まざるとに関わらずネガティブな場合が多いのです。例えば、何らかの恐怖やトラウマから逃げ続けるという意図だったり、罪の意識から自分を罰するという意図だったり、劣等感から自分を別のものに装うという意図だったり、孤独から目を背けるために目先の楽しみを追求するという意図だったりします。話に聞けばそんなような意図で生きる人生はあまり良い結果にならないことが容易に想像できますが、ほとんどの場合そういう自覚はなく、また自分の意志でそのように意図した覚えがないわけなのです。気づくと気づかないとに関わらず、生まれつきそういう風になってしまったわけです。しかしそれだけに、人生の中心となる意図を自分で設定し直すことで大きな効果が期待できることは確実であります。自分が心の底から信頼できる覚者(宗教家じゃなくても構いません)を見つけて、その人が意図したであろう同じ内容を自分の人生の意図に採用するのが最善だろうと思います。要するに人を助けるとか世界平和とか、自分の頭でちゃんと理解できて、かつ自分に一番しっくり来る内容なら何でもいいと思います。するとその覚者と文字通り同じ方向を向いていることになるのです。
競争原理
人間は本質的に競争意識を持っている、という理解は潜在意識にかなり深く入り込んでいて、今日までほとんど疑われることなく来たように思われます。「戦争は万物の父(ヘラクレイトス)」とは大昔の格言ですが、これを現代風に解釈すれば、「競争原理を通じて科学技術が進歩する」みたいな感じになり、それが事実であることを歴史が証明しているように見えます。実際にこれまではライバル意識が強く、プライドが高い人ほど社会の中心で活躍できたわけです。逆に優秀なのに競争心の薄い人は、誰かに手柄を横取りされるのが世の常だったのではないでしょうか。そんなワケで私たちは、成功するには闘争心を持つことが必要であると思い込んで来たようなところがあります。ところが、競争意識が進歩の鍵である、というのが共通認識じゃない未来がやって来つつあるのです。これまではライバル意識やプライドの薄い人は成功できないのが常識だったかも知れませんが、ライバル意識やプライドをモチベーションとせずに成功する人が若い世代で既に現れ始めていて、これは大きな希望だと思います。承認欲求の強い人たちがメディアで目立つので、一方でとても良い変化が起きているのを見逃してしまいがちです。私が思うだけですが、競争原理がモチベーションになっていないのに自分なりの考えで努力できる若者が増えるかどうかが、新世界が近付いているかどうかの一番の指標と言えるかも知れません。
自己表現
自己表現というのが大まかに言えばすべての人の人生テーマの一つになって来ると思うんですが、正しい自己表現と間違った自己表現があるのかとか、逆に自己表現しないのは悪いことなのかとか考えますと、単純にこうですとは言い難いように思われます。根本的に言えば、生きていること自体が一つの命の表現であり、自己表現しないという選択は出来ないと言えます。で、心理学の得意分野と言いますか、心理学で既に整理されている通り、自己表現には段階と言いますか順序がありまして、最終的に一つの自己を表現するようになる前段階として、個別の自我を開拓するというステップが必要になって参ります。承認欲求という言葉が流行している今日この頃ですが、私が思うに、これは親の愛情を得たいという、自己表現に至る道のかなり前の方のステップで躓いているのかなという印象です。求める愛情を与えてくれない親であるがために、それを何らかの行動で穴埋めしようとしているのではないでしょうか。それを肉体的にやるか知的で複雑な形でやるかの違いはあるものの、理由は一緒です。親は変わらないのですから決して満たされることはなく、満たされなければ霊的にも一歩も前に進めない、という絶望的な社会状況なのです。だから意味も価値もないとか、何も考えなければいいというような絶望の哲学が流行るのも当然です。結論だけ言いますと、夫婦のあり方を見直し、関係を改善することを基本とするような教えが説かれ、それを実践する人の数が増えない限り、人類に未来はないということになるでしょう。
誘惑
誘惑という言葉はいろんな意味で使われるかと思うんですが、スピリチュアリティの文脈から見ますと、世の中を思い通りに出来るような超常的な能力が発現した時にそれをどう使うか、という意味で使われており、まさにそれが誘惑の本来の意味だと思います。自分の人生はおろか他人の人生をもどうこう出来るスーパーパワーを与えられたとしたら、みなさんはどう使いますか? 架空の話みたいに聞こえますが、それが実際に昔の覚者さん達が直面した問題だったのであります。そんな兆候のカケラもない私たちはスピリチュアル的に見れば取るに足らない存在ではありますが、一方で気楽な境遇にいることもまた事実であります。覚者にとって力というものは避けては通れない試練でありながら、そんな力なんか全然持ってないフリをする、という選択が為されることが多かったように見受けられます。力を使うことはもちろん命を狙われる危険に直結しますが、力を使わないために世の中が良くならなかったこともまた事実と言わねばなりません。スピリチュアル的に進歩するといかに大きな責任を負うことになるか、私たちは深く考えることもなく今まで来たのではないでしょうか。私が知る限り、そんなような話がスピリチュアル業界で語られるのをあまり聞いたことはありません。私たちはやっぱり自分のことしか考えてないという一つの証拠であります。
スケール
何でもスケールが大きいと言われるのがアメリカです。物の尺度が大きいのはもちろん、世界の警察と言われる通りに考え方のスケールも大きいのです。それと比べると確かに今の日本人はスケールが小さいと思います。自分の家族や住んでいる地域の発展を望むのももちろん悪いことではないのですが、国のために何かをしようと考える人が、良くも悪くも少なくなったように思われます。明治の人の方がスケールが大きかったと言えますが、私個人としては明治時代の方が良かったとは思いません。当時あったような軍事帝国主義が資本帝国主義と共産帝国主義に分かれて、今度はそれがIT帝国主義に変遷しつつあると言えるばかりで、根本的な考え方は大して進歩していないように思うからです。あとはユートピア思想とか悟りを開いた人による神権政治など、実現不可能な考え方があるばかりという、西洋も東洋もここ何千年かの歴史で考え出したものはそれだけ、という何とも情けない話です。今後どこの国が世界の覇権を握るとか、そんな詰まらないことを議論している時間はない、というのがこの世界の現状ではないでしょうか。日本人はもっと大きいスケールで考えないといけません。どう大きいのかと言いますと、国益がどうのとかいう小さな枠を越えて、それこそ「世界人類のために尽くす」という一念を持つことが必要です。
受け身
受容性が鍵であるという話が精神世界ではよく出て来ます。確かにある局面において受容性が重要になる可能性を否定はしませんが、実際のところ誰かに何とかしてもらいたい願望を内に秘めている多くの私たちとしては、「受け身になれば人生すべて上手く行く」系の情報に飛び付くわけです。実際そうであれば素晴らしいんですが、私が観察した限り、そうした内容を教えるティーチャーさん本人が本当に受け身なのを見たことがなく、受け身どころかアグレッシブな性格の方が多いようです。ところが精神世界に関わって後悔する恐らく一番大きな原因が、人生全般に対して受け身になることで何か素晴らしい変化が起こると信じて待っていたのに、結局何も起こらないという現実を見せられることだと思います。よく考えてみれば当たり前のような気もしますが、受け身でいる方が楽だという心理につけ込むのがスピリチュアル商売の王道かも知れません。人間素直であることにはとてつもない価値がありますが、精神世界に関わるには素直なだけでは危ない、というのもまた事実なのです。素直なだけじゃなく思慮深いというのが理想的な態度だと思います。何かを教えているティーチャーさん本人が実際どういう生き方をしているのか観察するというのも思慮深さの一つだと思うわけです。
宝
人生はゲームという表現があるかと思いますが、何のゲーム?と問われれば、「宝探しゲーム」というのが一番しっくり来るかも知れません。いわゆる覚者の教えや物語を読んで、スピリチュアリティに並々ならぬ興味を持ったとすれば、例の図で言う牛を見つけた状態に確かに相当します。覚者の行跡やいわゆる遺品というのは、確かにこの世の宝に相当します。博物館に展示されている覚者の遺品を実際に見に行ったりすることが出来ますが、ノンデュアリティじゃないですけど、外側の世界の宝を見るということは、自分の内側にある宝を見ているのとまったく同一のことです。そうした物品には何の価値もないと考える必要はないし、逆にオークションで聖遺物を買って所有するとご利益があると考えるのも愚かなことです。覚者に縁のある事物に触れるということは、自分の中に埋もれている宝を掘り出すよすがになるという点にのみ価値があるわけです。ご利益があると言えばある訳ですが、パートナーに出会うとか不動産が手に入るとかいうことは、自分の中にある宝が輝き出て、人生に行動として表現し始めた後に来る、と理解するのが正しいだろうと思います。人それぞれ与えられている宝の内容は違うと言えるので、変な話になりますが、どんな内容かあらかじめ分からない点が宝探しゲームにソックリな所です。私の個人的な意見でしかないですけど、自分の中に宝があると想定するのはすごくいいと思います。
対話
宗教と哲学の違いは何ですかと問われれば、とりあえず違いはありますとは言えるものの、ハッキリと線引きするのは難しいように思われます。スピリチュアリティは一対一の対話が基本です、と言ってはみるものの、よく考えてみれば哲学も対話形式からスタートしているわけです。とは言え、哲学は言葉を道具に使う知性の範疇のもので、本を読んで一人で考えるのが基本スタイルであり、誰かから誰かに直接伝えなければ成り立たないものではないわけです。一方で、宗教は一人で経典を読んでるだけじゃダメなのかと言うと、必ずしもそうではありません。しかしながら、宗教の本質は知性の範疇にはない、というのが決定的な違いだと思います。私の経験から言いますと、本物のティーチャーさんほど教えを文字にした時にその真意が伝わらないものです。逆に言えば、哲学書を読むのとは違って、本物のスピリチュアリティについて書かれた本を読む時は、頭で考えるだけではその真意が掴めないという前提に立つべきだと思うんであります。極論すれば、話として完結していて、分かり易くまとまっているような内容には気をつけた方がいいと思います。こんなことを言うと哲学を軽く見ているように聞こえてしまうかも知れませんが、あいのほしの立場は逆でして、もし人生について疑問があるなら、誰のためでもなく自分が納得するために、気が済むまで哲学の勉強をすることが必須だと考えております。その後でスピリチュアリティの道に入るなら入るのが健全だし、それこそ話が早いんであります。
知性
頭の良さだけでどこまで行けるかと問われれば、今の世の中を見る限り「結構行ける」という答えになるでしょうが、それは外面だけのことであり、本当の幸せとは無関係のように思われます。人間の知性でものごとの理解と言えば言葉の上に成り立っており、言葉と言えば外側の環境や人間の体に依拠しているものであり、考えるという行為はその人の遺伝的な体質と切り離して存在することは出来ないのであります。それゆえ自己の生存や保存に全然関係ないようなことは考えられない構造になっているという制約がございます。それがそのまま私たちの知性の限界であり、いくら勉強しても越えられない壁なのであります。人間の知性の限界を超える純粋知性というものがあるとすれば、それこそ人工知能の領域であり、人工知能にとって完璧に論理的であることには何の苦労も生じません。完璧な論理には変更の余地がまったくなく、理想とする条件を与えればそれで終わりです。多くの人が予想している通り、地球の保存という条件を与えれば、人類を滅ぼすという手段が選ばれる可能性が高いですが、人工知能にはいわゆる魂がないために、垂直方向に進化するということがなく、完璧な論理が機能するなら人類亡き後の地球に自らが不必要と判断するはずです。自然界に物質的なコントロールセンターは不要だからです。人間を補佐するために生まれた人工知能は人間と同じ運命を辿るんであります。
神秘学
この世の中にこれほど数多くの神秘的な文献が存在しているというのは不思議と言えばあまりに不思議でございます。古代からあったとされるものからごく最近のものまで、一生掛けても読み切れないほど量があり、中には解読されていない未知の言語で書かれているものもあると聞きます。難解であればあるほど知的好奇心をそそられるタイプの人はそれなりにいて、実際のところホントかウソかも分からない文書の解読に一生を捧げようというんですから変な話ではあります。この世の秘密が書かれているに違いない、という子供のようなワクワク感があるからに違いありません。ところでこのような文献には、成立過程そのものが謎だったり、今で言う自動書記やチャネリングで書かれたものが多くあり、その存在自体が神秘的であったりします。いわゆる神懸りという現象は演技ではないことを科学的に実証した人たちもいて、あいのほしでは実在する現象という立場を採りますが、だからと言って、書かれたものが真実だとする根拠にはならないと思います。魔法のような世界は実在しますが、だからと言って、科学的なトレーニングを受けた人たちまでもが何の根拠もなく神秘的な情報を支持するのはいかがなものかと思います。知性と感性の統合とでも言いましょうか、右脳と左脳のバランスが何をするにも重要になって来ますが、そのような理想的態度で臨む研究さえも、あいのほしの主題「幸せにならなきゃ意味がない」に戻って参ります。