ヨアン・クリアーノ『ルネサンスのエロスと魔術』

ルネサンスの文化は想像の文化である。それは内的感覚によって呼び起こされる想像に途方もなく大きな意味を認め、想像に対し、またそれとともに活発に働きかける人間の能力を極限にまで発展させた。(中略)幻想の偶像崇拝的、非宗教的性格を主張することによって、宗教改革は一撃にしてルネサンスの文化を滅ぼしたのである。

同郷ルーマニア出身の宗教学者でミルチャ・エリアーデの愛弟子、ヨアン・クリアーノ(1950-1991)の代表作。ルネサンスとは何だったのか? 専門家でも答えに窮する質問である。専門書であって一般向けに書かれてはいないが、天才ではない私たちが本書を読む意義は、一面的・直線的ではない考え方とは具体的にどういうことなのかを学べる点にあると思う。通俗的な理解では、ルネサンスと言えばギリシア・ローマ時代の学芸の復興だとか、中世の宗教的迷信からの脱却だとかが連想されるかも知れない。しかし実際には、完全に古典に忠実であったわけでも完全に理性中心であったわけでもなく、(内的な感覚印象とも言うべき)「想像的なもの」による錬金術的・神秘主義的な現実の操作を企図していたという側面があった。現代の「思考が現実を創造する」という哲学の源流は古代に遡り、知る由のない経路で確実に中世の西欧社会に伝わっていて、ルネサンス期には迷信的な儀式形態と経験ありきの精神集中の技法を寄せ集めたような様相を呈していたと思われる。マルシリオ・フィチーノやジョルダーノ・ブルーノといった代表的人物の著作がその都度引用され、当時の魔術がどのようなものであったか、ある程度のイメージを掴むことができる。私たちが抱く魔術のイメージからそれほど遠くはないような、言葉、数字、図形、シンボル、占星術を用いる複雑な体系があったらしいが、かと言ってそこから、西洋文明は魔術的技法による権力掌握と大衆操作の歴史であったかのように極論することはできない。現実の解釈は多層的・複眼的なものである。魔術師も錬金術師も(少なくとも表面的には)キリスト者であった。宗教改革(プロテスタント側)も反宗教改革(カトリック側)も、「想像的なもの」と「現実的なもの」を完全に分離するという目的に対しては協働し、その最終結果が現代科学技術文明であるという見方が提示されている。該博な知識を持つ著者ならではの知見が多く、ヨーロッパ知識人の面目躍如に瞠目せざるを得ない。

ジャン・クライン『われ在り』

二十世紀フランスが生んだ二大霊的指導者の一人、ジャン・クライン(1912-1998)。(ちなみにもう一人はアルノー・デジャルダン。)妻子のある医師であり音楽家でもあったが、思うところがあり1950年代に一人インドを旅し、奇跡的な経緯で伝統的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)と、カシミール地方に古代から連綿と伝わるシヴァ派(ヒンドゥー教の宗派の一つ)のヨーガを会得した。帰国後は広く欧米にその教えをもたらし、パリ五月革命に代表される価値観の転換に寄与したとも言え、後継者としてフランシス・ルシールエリック・バレを残した。現代のネオ・アドヴァイタの中には、シンプルに表現され過ぎていて、インド哲学の知識がない限り的外れな理解が生まれる可能性のあるもの、あるいは、西洋哲学の枠組みの中で再解釈され、意味が歪曲されているように思われるものなど、要するに傍流に変化しているように見えるものもあるが、この本はもともとのエッセンスを見事に抽出していると言って差し支えないだろう。インド哲学をある程度知っている欧米人に向けて語られているが、難しい専門用語やキリスト教との比較に頼らないため、私たち日本人にも分かり易い。ときおり曖昧な表現が使われているからといって何となくフィーリングで読むのではなく、まずは書かれている内容を論理的にきちんと理解するように努力し、そのあとで指し示されているそれそのものを予感するようにするとよい。

(まだ日本語に翻訳されていないが、ギリシャで行われた講演の記録である Open to the Unknown もよい。)

中村天風の心身統一法

『幸福なる人生』

現在、目の前に立って教えを授けている人間に対しても、自分の心の中でもって、壁をつくっちまうからいけないんだ。私とあなた方と大した差はありゃしないぜ。ただ、ここに立っているか、そっちに座っているかだけなの。

天風会(初期の名称は統一哲医学会)は1919年に成立しているが、本書に収められている講演はすべて戦後のもので、中村天風(1876-1968)が命を賭けて作り上げた「心身統一法」の基本原理が読みやすくまとめられている。人間は誰でも、「病」「煩悶」「貧乏」と自ら縁を切り、幸せになる力を与えられていると言う。ただし、ただ期待して待っているだけでは誰も物にはならない。「観念要素の更改」「積極精神の養成」「神経反射の調節」と言い方はやや古めかしいが、極めて具体的な方法論があり、各方面に実際に物になった人を多数輩出して来た事実こそが、これらの方法に妥当性があることを証明している。敢えて分類するとすれば、伝統的なラージャ・ヨーガから形式的な部分を取り除き、日本人向けに組み立て直した内容と言えるだろう。しかもそれで完成としないで、医学的発見を取り入れつつさらに前進しようとしていた点は特筆に値する。心身統一法は、これからの日本のスピリチュアリティの叩き台であると言いたい。


『真人生の探究』

これを分り易く要約すれば、霊性の満足を目標とする創造の生活とは、常に「人の世のためになることをする」ということを目標とする生活なのである。(中略)そしてこれをたやすく実現せしめるためには、出来る限り、人のため、世の中のためになることを言い且つ行うということを、自己人生のたのしみとするという気分になることである。

未だに精神世界では、自説を装飾するために都合の良い学説のみを援用するのが悪しき慣例になっているが、天風は医学・栄養学・哲学・心理学・心霊学など、一つだけ取っても極めるのが困難な学問をいくつも基礎から勉強している。「人間とは何か」「いかに生きるべきか」という根本問題への一つの答えとして総合的に組み立てられた「心身統一法」の基本原則が、百年も前に既に成立していたのには驚くほかない。天風が自ら著した数少ない著作の中で、最も基本と言われているのが本書である。天才の思考プロセスを是非味わってみて欲しい。


『盛大な人生』

どんな場合でも感謝にふりかえてごらん。すると、この心のもつ歓喜の力は、これはもう何とも形容のできない人生のエクスタシーを感じる事実となってあらわれてくる。また、それを求める必要もない。報いを求めちゃいけない。自分の生きてるあいだ、何ともいえない楽しさ、朗らかさ、おもしろさの絶えざる連続だというような生き方にしなきゃあ。それがとりもなおさず、人の生命と宇宙本体の生命との調子を合わせるダイヤルになるんだよ。

心身統一法の高度な段階として天風会員に贈られた講話をまとめた一冊。天風は禅門の人ではなかったが、禅で言うところの悟りに直入するためのいわゆるダイレクトパスをも説いていた。「安定打坐(あんじょうだざ)」と呼ばれる瞑想法がそれである。宇宙の進歩的方向に貢献しないなら意味がないと考え、悟り(有意実我の境)そのものを目的にしなかったところはいかにも天風会らしい。ならば、なぜ瞑想する必要があるのか。それは、純一無雑な意識の大元に立ち返り、心を休ませてあげることで、命の本然の力が湧き出るためだと言う。ここまで噛んで含めて説明してくれる指導書は、私が知る限りでは他にない。


『力の結晶』

吾は今 力と勇気と信念とをもって甦えり、新しき元気をもって、正しい人間としての本領の発揮と、その本分の実践に向わんとするのである。

吾はまた 吾が日々の仕事に、溢るる熱誠をもって赴く。

吾はまた 欣びと感謝に満たされて進み行かん。

一切の希望 一切の目的は、厳粛に正しいものをもって標準として定めよう。

そして 恒に明るく朗かに統一道を実践し、ひたむきに 人の世のために役だつ自己を完成することに 努力しよう。

誦句とは、天風の霊性心から出て来た言葉をそのまま書き留めたもの。意味も分からず呪文のように繰り返し唱えていればいい事が起こるということではなく、言葉が示している中身を確実に自分のものにすることが本来の意図である。まさに天風哲学の結晶と言えるものであるので、心して受け取るべきであろう。本書は、それぞれの誦句に込められた真意を、天風本人が説き明かして行く構成になっている。

森本貴義、近藤拓人『新しい呼吸の教科書』

心身の悩みやトラブルがきっかけとなり精神世界に入門する人の数は多いに違いない。だが、瞑想だとか潜在意識を変えるとか、やたらと(心の操作ですべてを解決できるという)精神論を強調する教えに従って努力したものの、これといった成果を出せないまま何十年も苦しい思いをしている人もありはしないだろうか。それはスポーツの世界で、かつての(服従と忍耐を強要する)根性論が今ではあまり正しくないとされているのと似て、手段がきちんと目的に結び付いていないからという可能性も考え得る。まずは呼吸を改善してみるのはどうだろうか。ストレスの多い現代人は、多くの場合呼吸が乱れているらしい。誰でも最初は(自然な)正しい呼吸をしているが、それを取り戻す必要があるということである。本書は、細胞に届けられる酸素の量を増やすことによって心身の状態を改善できるという事実を、最新の知見を交えて教えてくれる。楽な呼吸をするための姿勢や筋肉を取り戻すエクササイズも紹介されており、基本的に実践中心の内容である。インストラクションをよく読む必要があるが、写真入りなのでイメージはしやすい。ほとんど誰にでもできる基本的な方法から始めて、かなりスポーツをしている人にとってもやり甲斐のあるレベルにまで進んで行く。

バーバラ・マーシニアック『プレアデス+ 地球をひらく鍵』

プレアデス星団の反逆者集団が、チャネラーであるバーバラ・マーシニアック(1948-)を通じてメッセージを伝えるという、常識からすればいわゆるトンデモ本の類いではある。彼らによれば、自分たちの祖先が過去に人類に対して行ったDNA操作の結果、生命の本質が冒涜され、最終的に人間がサイボーグ化された未来の時間軸が存在しているのだと言う。地球はあらゆる生物の設計図のようなものが貯蔵されている12ある図書館のうちの一つで、人間はその情報にアクセスするためのIDカードのようなものであり、それゆえ重要であると言うが、それが具体的に何を意味するのか詳細は語られていない。プレアデス人自身をも含めて、外部からのメッセージを簡単に信用してはいけないとする。なぜなら必要な情報は既に人体に記録されているからとし、それゆえ私たちが自身の中にある情報にアクセスする方法はしっかり語られている。問題は「地球を所有していると思っている」アヌンナキなる高次元の存在たちとゲームをプレイすることによって、私たちが心の内部を覗き込み、すべての本質が愛であることを見破れるかどうかであり、図書館を開く鍵は、地球を我が家として大切に思う気持ちであると言う。古代史からセクシュアリティに至るまで話題は多岐に及び、内容の質は他の追随を許さない。変なことを言うようだが、まずは完全なフィクションとして読むのがいいと思う。それでも、普段のものの考え方にいかに想像力が足りていないかを痛感させられるだろう。歴史学や考古学をやる人には特におすすめ。

ハズラト・イナーヤト・ハーン『音の神秘』

音楽は神への最短かつ最も直接的な道です。しかし人は、音楽とはいかなるものであり、それをどう用いればよいのかを知らなければなりません。

ヴァドーダラー(インド)出身でイスラム神秘主義(スーフィズム)の大家であるハズラト・イナーヤト・ハーン(1882-1927)の著作集の中で、一番有名な第二巻を全訳したもの。主要テーマは音楽であるが、音楽家のために書かれたわけではなく、一般の人をスーフィズムの世界に招待するといった内容である。著者は主要な宗教すべて(特にヒンドゥー教)に精通しており、これから神秘の道に入って行く人に盤石な基礎を与えてくれる(逆に、イスラム教の歴史や哲学を知りたい人には向いていないと言える)。すべては一つのものから発せられる音色、高さ、長さ、強さ、リズムといった特徴を備えた音(波動)であり、五大元素(地、水、火、空気、エーテル)によって表現され、内的な感覚によって聴かれる現象であると説く。そこから規則正しいリズムの効果や、音と音との協調関係(ハーモニー)という考えが導かれる。文章そのものに調和が取れており美しく、かつ経験に裏打ちされていることが感じられ、大師が(何を意味するのであれ)確かに「完成」の域に到達していたことを窺わせる。一見すると、具体的なメソッドは何も書かれていないようであるが、大師の言葉もまた音楽であり、それを本当に「聴く」努力をし、スーフィーたちの気息に同調するつもりで読んでみると、実はいろいろ方法が指し示されていることが理解される。感受性が磨かれれば、その分だけさらに多くの実りを得られる読書体験になるだろう。

アーノルド・ミンデル『自分さがしの瞑想』

西洋と東洋をどちらもよく理解している人はあまりいない。たまにいても評価されない。正しく評価できる人がいないからである。アーノルド・ミンデル博士(1940-2024)の提唱するプロセス指向心理学が、しかるべき評価を受けているとは言い難い理由は、そんなところかも知れない。「動いているスピリット」とも言うべき「プロセス」を信頼することが鍵になるが、このプロセス自体を科学的に定義することがまず困難ではないかと思う。私たちの現在の人格である「一次プロセス」は、未来からのメッセージである「二次プロセス」に常に脅かされているが、多元的な意識の構造とか、プロセス自体が私たちをどこに導こうとしているのかといった難問に、容易に答えは与えられない。そうした基礎理論上の性格はあるものの、この本で明らかにされる瞑想法は、(静座して心の動きを観察するといった)基本をかじったことさえあれば、誰でも十分に理解し実践することができるものである。逆に、瞑想中に(繰り返し)浮上する雑念や妄想を無視することなく、メッセージとして受け取るべし(瞑想したい私が一次プロセスで、入って来る邪魔が二次プロセスで、両者間の葛藤を眺めているのがプロセス自体と言える)と書いてあるので、仏教やヒンドゥー教の瞑想を極めた上級者にはおすすめしづらい。しかし、ここからスタートする恵まれた初心者だけでなく、すでに瞑想に親しんでいる人も、道しるべになり得るヒントを本書の中にたくさん発見できるはずである。

※本書だけではプロセスワークの瞑想法が具体的にイメージできない場合、同著者の『うしろ向きに馬に乗る』(春秋社、1999年)を副読本にするとよい。

アレクサンドル・ジョリアン『人間という仕事』

哲学はたしかに、苦痛が最後の言葉とはならず、苦痛から生の蔑視が生み出されないために、複数の地平線を開くことを可能にしてくれます。

多くの人にとっては当たり前のことが当たり前でない人にとっては、ものごとはまったく違って見える、ということは忘れられがちな事実である。スイス生まれのアレクサンドル・ジョリアン(1975-)は、脳性運動機能障害というハンデを負いながら、ヨーロッパの伝統的な教育課程において哲学の学士号を取得した正統派である。ヨーロッパの一般的な若者の間では、哲学とは基本的に生活とは無関係であり、上流階級や中高年層が余暇に楽しむものと考えられているらしい。しかし意外と言うべきか、著者にとっての哲学はあくまで実際的な学問なのである。常日頃苦痛を伴うリハビリをすることを余儀なくされ、リハビリを諦めるという選択は半ば自殺と同じ意味を持つという条件の中で、彼にとって生きることは(家族の協力なしでは成り立たない)継続中の闘いであり、自閉し孤立したくなる誘惑に抗って人間に「なる」とは、常に前進し心を高めることである。当然、共感し喜びを見つけることが一番大事な仕事であり、プラトンやスピノザやニーチェは、そのために前に進むことを可能にしてくれる武器や道具を提供してくれる先人である。本書以降の著者は三児の父親になり、西洋哲学の範疇を出て(スワミ・プラジニャーンパッドによる)不二一元論や禅にも出会い、ますます思索を深めている模様である。今現在フランス語圏における気鋭の思想家と言ってよいだろう。