マヘンドラ・グプタ『大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉』

熱心に、真心こめて神に祈りなさい。そうすれば、あの御方は必ずききとどけて下さる。

十九世紀インドの聖人、ラーマクリシュナ(1836-1886)の言行録である。その教えの内容は、ヨーガの四区分(ラージャ、カルマ、バクティ、ジニャーナ)で言えば、バクティ・ヨーガに分類されると思われる。バラモン階級の生まれでありながら、イスラム教にもキリスト教にも自ら入信し、どの道も同じ目的地に到達すると喝破した、目の覚めるような先覚者であった。愛弟子のヴィヴェーカーナンダが、ヨーガ哲学の真髄を初めて欧米に伝えた事実も有名である。「熱心に求めさえすれば、誰でも神を見られる」と、ラーマクリシュナはいとも簡単そうに言う。ほとんどの人は五官の歓びを幻であると観じて捨て去ることができない。しかしラーマクリシュナは、「俗世に染まってしまえば神を見ることはできない」どころか「世間で暮らしていても神を見ることは可能」だとする。一般人に向かって「世を捨てて修行せよ」とか「この世には何の意味も価値もない」などとはまったく言っていない。絶対不動の実在(神)と、多種多様な現象世界の働き(俗世)は、天秤の重さの同じ二つの皿であり、必要なのは(神を恋い慕う)ひたむきな気持ちだけだ言うのである。ラーマクリシュナには、難しい概念を子供でも理解できる譬え話で表現する才能があり、大人は非常に理解し易い。とはいえ、聖人の言葉を無分別に取り入れるのは望ましくない—神にすがれと言うが、実際には人の情けにすがって生きていただけではないか? 聖人ならばどうして病死したのか? 精神文化はともかくとして、インド社会に具体的にどんな貢献をしたのか? もっともな批評である。だが結論を下す前に、まずは本書を一読して欲しい。あらゆる意味で、すべての宗教の本質がここに要約されている。

※上記の文庫版はベンガル語原典からの抄訳である。全五巻の完訳はラーマクリシュナ研究会による編集を経てブイツーソリューションから刊行されている。

ベッセル・ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する』

高等教育では、心理学は基礎から始めて臨床に進むという順番になっている。だが、心理学に興味を持った一般人は、長い時間をかけて基礎から積み上げるのではなく、心理学が実際どのように役に立つのかを一番先に知る必要がある。そこで手引き書を探すわけだが、あまりに選択肢が多く、なかなか困難である。精神病理学は荷が重すぎるし、かと言って、科学的な根拠が明確でないカジュアルな流行本も好ましくはない。一般人にとって心理学はやはり臨床が肝であり、具体的にどんな可能性があるのかを分かりやすく教えてくれる本が必要であろう。PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されるかどうかは別として、人は誰でも、大なり小なりトラウマを抱えて生きているものである。この本のテーマはトラウマであり、それゆえ絵空事のような学問としてではなく、自分自身や身近にいる人に引きつけて理解することができる。専門知識がない読者を想定して説明してくれるので、視床、扁桃体、前頭葉、ミラーニューロン、エピジェネティクス、脱感作といった用語を初めて聞く場合でも有用な知識を得ることができる。多くの臨床例が取り上げられるが、当然気楽に読める内容ではない。臨床心理学に進もうかどうか漠然と考えている若い人にとっては、この本を読むことが、自分に向いているか否かを判断するための格好の試金石にもなる。セルフヘルプ本ではないので、読者が自分で実践する目的には書かれておらず、あくまで臨床家の存在を前提にしているが、トラウマの治療法としては、断片化した感覚や感情を認識し、解離した経験を統合するトップダウン型の方法と、リズミカルな動きやツボのタッピングといった経路で、脳幹の警報システムを解除するボトムアップ型の方法とがあり、両方を併用することで一層効果が上がるという。もちろん投薬治療の可能性も否定されてはいない。幼少期の虐待やネグレクトが人生を大きく狂わせ、ひいては多くの社会問題の根本要因になっているという研究が示され、支援のための仕組み作りを著者は訴えている。

ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』

プラグマティズムで知られるアメリカの心理学者、ウィリアム・ジェームズ(1842-1910)の主著の一つであり、1901年と1902年に分けてエディンバラ大学で行なった講義をまとめたものである。「スピリチュアルな価値」などというものはない、あるいは分からないという前提から始めて、当然否定的な結論に至るのが、普通の科学者というものかも知れない。心霊現象を研究したことでも知られるジェームズであるから、本書でも霊的価値というものに肯定的な立場をとっている。まずテーマを「個人的宗教」、すなわち組織宗教の枠組みの中ではなく、個人が経験し得たことの中で、強烈な宗教性を放っているとしか表現しようのない事例のみに限定している。アフマド・ガザーリー、ハインリヒ・ゾイゼ、イグナチオ・デ・ロヨラ、アビラの聖テレサ、十字架の聖ヨハネ、ヤーコプ・ベーメ、ジョージ・フォックス、ホイットマン、トルストイなど、有名無名の事例が多数取り上げられ、この分野でどんな一次資料があるのかを把握することができる。「神の顕現」としか呼べないような神秘体験をしたことがある人は、そのような一般人の実例も紹介されているので、勇気づけられることになろう。宗教的経験を、生まれつき世界の善性を楽観的に信じる「一度生まれ型」と、極度の鬱や絶望の後にすべてが反転するという、死と再生の「二度生まれ型」の二つに分けた上で、二度生まれ型がより深い宗教性を持つと言う。ちょうどこの頃アメリカで花開きつつあった新思想運動(ニューソート・ムーブメント)さえも、一度生まれ型の宗教として好意的に取り上げている。また、当時は虚無主義と解釈されることの多かった仏教を、キリスト教と同等に評価している点にも感心させられる。とはいえ、神経過敏や強迫観念と聖者との関係、催眠や暗示への感受性と神秘体験の関係、自己侮蔑と犠牲的態度の関係といった、科学者としての精神病理学的な考察を加味することも怠らない。ジェームズの講義の進め方からは、二十世紀初頭で、既に学際的であったハーバード大学の校風を窺い知ることができる。欧米の一流大学への留学を目指す若い人は、このような多面的な議論ができるように、早い段階からトレーニングを積むとよいだろう。演繹的な抽象化を良しとしない、学者としての理想的態度を示してくれる本でもある。

(なお、哲学的興味が薄く、難解な本書を通読する自信がない人は、下巻の「神秘主義」の章のみを読めばそれで十分だと思う。)

夢窓疎石『夢中問答集』

仏教の入門書は数あれど、仏教の本質を捉えるのは難しいと思う。そもそも釈迦本人の説法の中には、当時のバラモン教やアージーヴィカ教の教義に反論する形で説いた相対的な教えが含まれているし、さまざまな哲学を取り込みながら発展して来たという歴史もある。苦諦(生きることは苦しみであるという考え)を根本とするのかと言えば、現世を完全否定するわけでもない。足利直義の質問に、臨済宗の高僧である夢窓疎石(1275-1351)が答えるという形式で書かれているこの本の内容を一言で要約すれば、坐禅とその工夫用心に猪突猛進すべし、ということになろうか。ただし、禅の入門書ではない(教外別伝)。三十一歳で印可を受けてから、悟りの伝達を求めて押し寄せる修行僧たちを避けるために各地を転々としつつ大悟徹底に努め、指導的立場に転じたのは五十歳を過ぎてからと伝えられるから、並大抵の心根ではないだろう。足利直義もまた頭の良い人で、一般人が疑問に思いそうなことを虱潰しに質問しているので、夢窓疎石の答えも包括的な内容になっている。直義の素朴な問い掛けに、「なるほど私も若い頃、同じように考えたことがあった」とその考えの妥当性を認めた上で、「しかし実は、こういうことだ」と続け、分かり易い実例を挙げる。仏法はこうなんだからとにかく信じなさい、とは決して言わないのである。本分の田地、離欲、理入と行入、魔境、菩提心などの重要な概念に、明快かつ徹底的な説明がなされ、レトリックによるごまかしがない。ニューエイジのようにも、ネオ・アドヴァイタのようにも読めてしまうところに、時代を超越する覚者の凄みを感じる。さらっと読むのではなく、よく考えながら読まなければ、仏教のエッセンスを汲むことは難しい。だが、努力するだけの価値はある。

アウグスティヌス『告白』

ローマ帝政期のタガステ(現アルジェリア)の生まれで、ヒッポ・レギウス(現チュニジア)の司教になったアウグスティヌス(354-430)が、自身の半生を告白するという内容である。神の前で告白すると同時に、人に読んでもらうためにも書いているという、二重の構造になっており、後の時代の「告白文学」とは若干性質を異にしている。若き日のアウグスティヌスは、(当時のアフリカ的気質を思えば奔放とまでは言えないものの)情熱的な青春、マニ教や星占いへの傾倒、親友との死別など、さまざまな経験を積んで行く。どうすれば立身出世できるだろうか、結婚はどうしたらよいのかといったことで、普通に思い悩みながらも、類い稀な知性に恵まれていたために、ミラノで今で言う国立大学教授のような要職に就くことに成功する。しかし、「真実」への渇きは尋常ではなかった。スピリチュアルな「探究者」が誰でも通り抜けるであろう典型が、そこには見出せる。彼は自分自身に問いかける。そこには、生きている限りいつかは問わざるを得なくなるすべての問い—自分はどこから来たのか、どう生きればよいのか、何のために生きるのか、神とは、そして悪とは何か—が含まれている。結局、生きているという事実と何の関わりもない哲学に、何の意味があろうか。それから、かの有名な目覚めが起こり・・・単に罰を恐れるがゆえに品行方正な人と、非行も含めて、ありとあらゆることをやり尽くした後に改心(キリスト教の文脈では回心)した人とでは、理解の深さが全然違うのは、いつの時代も共通なことかも知れない。アウグスティヌスが、神の光—それは比喩であって可視光線のことではないと彼は書いている—を、理知的な次元ではなく、「体験した」あるいは「見た」ことは確実である。今やさまざまな資料を比較検討することが可能な私たちは、それは例えば、禅で言うところの「一瞥」や「見性」と本質的に同じであったことを、容易に読み取ることさえできる。この本には、自らの魂と対話しながら読み進める(もともとの意図はこれである)のと、字面通りに受け取るのと、二通りの読み方がある。事実、カール大帝の時代には、アウグスティヌスの著作は「法律的」に解釈されたらしい。キリスト教の前提知識は必要ない(むしろない方がよい)ので、ぜひ心で読んで欲しい。この本を読めば立派な哲学者になれるとは思わない。しかし、西洋文化を本気で理解したいと思ったら、一番最初に精読すべきと言い得るほどの名著である。

企画書「精神世界ガイド」

要点

スピリチュアル版ミシュランガイドの創設を企画します。混迷を極める現代の情報社会では、興味本位の範疇を越えて、本格的に人生の指針を得ようとスピリチュアリティの門を叩いても、これほどたくさんの選択肢があると、本当に自分に合った道を見つけることは難しいのではないでしょうか。初心者が、最初から最良の情報に辿り着くことは稀です。「生徒の準備が出来たとき、教師が現れる」というのは一種の神話であって、現実には、たまたま声高に宣伝していた教師や団体に成り行きで関わって行き、それが実は、自分が本当に求めていた道とは違っていたことに気づくまでに、何十年と労力やお金を無駄にしてしまう人が多いのではないでしょうか。 詐欺まがい、カルトまがいの教師や団体に関わってしまうと、経済的な被害を受けるだけならまだマシで、最悪のケースでは、「人生を奪われた」と言えるほどの悪影響が及びます。質が高く、信頼の置ける教師や団体を紹介する誠実なガイドブックが、是非とも必要な現状ではないでしょうか。そのガイドブックには、博物趣味的にいろいろな情報をただ収集したのではなく、そこから抽出したスピリチュアリティのエッセンスが、端的に明示されているべきではないでしょうか。この企画は本として出版するのが適当でしょうが、予算次第では、インターネット上のみでの公開という選択肢もあります。もちろん、企画者は非営利目的の第三者審査機関に徹することが理想です。

幸せとは

あらゆる種類のスピリチュアリティが一つの目的に集約するとしたら、それは「幸せでいる」ことに尽きるのではないでしょうか。スピリチュアリティ以前の幸せの基本条件として、まず、健康・愛情・(最低限の)経済の三つが満たされることが挙げられます。政治的、宗教的な服従を強制される環境の中で、集団催眠にかけられ、自由と幸福を得ていると思い込まされている状態とは区別され、それは内側から沸き上がる喜びや輝きがあるかないかで判断できます。スピリチュアリティは、それによって(誘導的、強制的に)健康・愛情・経済が脅かされたり、損なわれるものであってはいけないと考えます。その上で、スピリチュアリティでは、幸せには二つの方向性があるとされています。一つは、自己実現方向で、人間社会の繁栄のために何か貢献しようとする積極的態度の中に見出されます。もう一つは、自己消滅方向で、何かを成し遂げようと意志する主体そのものが脱落する過程の中に見出されます。しかし、すべての人が超能力者となり、欲しいものを何でも手に入れること、あるいは、すべての人が世捨て人となり、悟りが開けることが、スピリチュアリティの目的であるとは思いません。このプロジェクトでは、一つの仮定として、本当の幸せはどちらか一方ではなく、美徳とも言うべき両者のバランスにあるという立場を採ります。

先行する企画

先行する類似の企画に、別冊宝島さんの『精神世界マップ』、平河出版社さんの『精神世界の本』、荒俣宏さんの『世界神秘学事典』、ブッククラブ回さんの『スピリチュアルデータブック2007』などがあります。ただ、古典的名著を紹介するという形式だと、スピリチュアリティが単なる知的な探究であるという印象を強めてしまう虞があります。最も参考になる企画は、フランスの出版社 Almora による Guide Almora de la spiritualité で(最新版は2013年刊)、これは古典を掘り起こすことではなく、実践されることに主眼を置き、実地の調査をも含めて検証された、現代フランスの生きたスピリチュアリティの総目録になっています。

なお、日本の宗教法人に関する一次資料としては、文化庁が毎年発行している『宗教年鑑』があります。

評価方法

当該の教師・団体が発行する著作やインターネット上の公式サイトなどに一通り目を通します。その上で、もし予算が許せば、抜き打ち的にイベントやセミナーに参加し、詐欺まがい、カルトまがいの言動がないかどうかをチェックします。完璧な教師はいないのですから、審査上やむを得ない場合を除いては、試したり悪意のある質問をしたりといった挑戦的な行為は慎まなければなりません。大きな団体については、過去に名称を変えたり、裁判沙汰になったりしたことがあるかどうかもチェックします。明瞭な評価基準を設け、掲載するべきかどうかを総合的に判断します。評価するに当たっては、一般常識に加えて、宗教全般についての基礎的理解や、カルトの原理、サイコパスの心理についての基本的知識が必須になります。

評価基準

  • 内容。人の悩み苦しみを徹底的に洞察し、解決のための実際方法を明確に提示できているかどうかをチェックします。さらに、当該の教師自身が、人にインスピレーションを与えるような素晴らしい生き方を、実際にしているかどうかをチェックします。
  • 料金。今の日本には、精神世界・スピリチュアル業界の適正価格の相場がありません。そのため、心に悩みを抱える人たちに付け込む心理的商売が、野放しになっている状態です。当該の教師・団体が提供するサービスの対価が、一般常識に照らして法外な金額になっていないかどうかをチェックします。また、 当該の教師・団体の活動の根幹が、家元制度・上納金制度・資格商法・マルチ商法・ねずみ講の上に成り立っていないかをチェックします。政府が規制をかけざるを得ない事態になる前に、民間が率先して自浄能力を示して行きましょう。
  • 歴史。一般的に、長く続いているものほど信頼性が高いと言えます。ただし、伝統的な正統派だからと言って、盲目的に高く評価するようであってはいけません。
  • 成果。当該の教師や団体に関わりを持った人たちが、実際に変化し、幸せになっているかどうかをチェックします。
  • 知行合一(言行一致)の原則。美しい理想が語られるのみで、現実の行動を伴わない教えは虚しいものです。言葉と行為との間に、著しい矛盾が見られる教師や団体を、高く評価してはいけません。
  • 公平性の確保。執筆者・編集者が信奉する教義が、やたらと高く評価されないように、可能な限りダブルチェック、トリプルチェックを徹底する必要があります。執筆者・編集者の知り合いが、不適切に高く評価されないように配慮しなければなりません。また、このプロジェクト自体が、企画者の売名行為にならないように、配慮しなければなりません。

対象範囲

全世界を網羅することは現実的ではないので、日本国内で活動している教師、または日本に活動拠点を持っている団体に限定します。少なくとも二十年以上は安定した活動を続けており、なおかつ際立った成果を上げている教師や団体を中心に取り上げることが望まれます。いかに優れているように見えても、活動開始から十年も経っていないような教師や団体を、安易に取り上げるべきではありません。

  • 伝統宗教。仏教、神道、キリスト教、ヒンドゥー教(ヨガ哲学)、イスラム教、ユダヤ教、先住民文化(シャーマニズム)など。何千年もの伝統は、それだけ多くの検証に耐えて来たと考えられるので、王道だと思います。
  • 神秘主義思想。歴史的に見て、神秘主義はスピリチュアリティの最大の源泉とも言えますが、神秘のヴェールは最大の煙幕にもなり得ます。おとぎ話のようで現実味のない団体には、疑問を呈するべきです。
  • 心理学・心理療法・脳科学。精神の健康は誰にとっても重要ですし、そこが入り口になる人たちも多くいると思います。
  • ヒーリング。医学的検証に耐え、スピリチュアリティに連なるものであれば、取り上げるべきです。
  • 自己啓発。ビジネスの成功哲学にも、スピリチュアリティに繋がって行くものがあります。
  • 新興宗教。敬遠されがちな分野ですが、もし卓越した教義を持ち、運営方法も穏当であるなら、取り上げるべきです。
  • 超能力者・霊能者。科学的検証にオープンであり、なおかつ著しい社会的(影響力ではなく)貢献があるなら、取り上げるべきです。
  • 霊媒(チャネリング)。チャネリングによる伝達は、一般的に信憑性が低いと考えられますが、年月を経て情報の有効性が証明されているなら、取り上げるべきです。
  • 文学・哲学。実践するという点では疑問の余地があるものの、純粋な文学・哲学の中にも目を見張る内容のものがあります。
  • 芸術家・音楽家。美しさはスピリチュアリティに繋がります。
  • 武術。伝統的な武術にはスピリチュアリティが内包されている場合が多いので、取り上げるべきです。
  • エコロジー。先住民文化と共鳴する環境哲学の中には、優れたものがあります。

対象外とするべき範囲

非常識で無責任な教師や団体は、取り上げるべきではありません。トラブルを回避するために、敢えて悪評を掲載するよりも、評価できない教師・団体は最初から掲載しないという方針を採ります。 評価できると判断した場合でも、(取材とは違うので、掲載許可を貰う必要はないとは思いますが、)メディアへの露出を望まない教師や団体を、一方的に掲載するべきではありません。また、次のような特徴を持つ教師・団体は、そもそもスピリチュアリティとは何の関係もないため、対象範囲外とします。

  • 過激な教師や団体。宇宙には善悪も意味もないので何をやっても構わないとする教え、幻覚剤を用いる実験、黒魔術、悪魔崇拝、常軌を逸した儀式や修行を伴う超越思想など。
  • 霊的伝統の枠組みを悪用し、明らかに金銭やマインドコントロールを主目的としている教師や団体。
  • 社会不適応的な傾向を持つ人に、まやかしの希望を与えて依存させることで成り立っている教師や団体。
  • 理屈がどうであれ、信者に家族を捨てることを奨励する教師や団体。
  • 脱退しようとする人に対して、恫喝や脅迫をする教師や団体。
  • 諸悪の根源は政治経済システムにあるなどとし、反体制的な言動が目立つ教師や団体。
  • 自らが一番優れていると主張し、他を悪しざまにけなす教師や団体。
  • まったくのデタラメではないものの、明らかに大袈裟な「奇跡」「究極」「世界初」「革命」「何もかも上手く行く」などの表現を用いたり、明らかに話を盛っている体験談や有名人の推薦文を持ち出したりして、誠意を欠いた宣伝広告を行う教師や団体。
  • 性的な関係が入り乱れている教師や団体。
  • 本名や都合の悪い過去の経歴を隠そうとする教師。
  • 悪意はないものの、(エゴは実在しないので)自分には責任がないという哲学のもと、気まぐれな言動で人を惑わす教師。
  • 自らを過信し、絶対に間違いを認めようとせず、人に頭を下げることを知らない教師。
  • 「信じる信じないはあなた次第」という、結果が検証されることを最初から視野に入れていない、その場限りの占いや人生相談。
  • 一般に存在を公表していない秘密結社や、一般に公開してはいるものの、上級者サークルに入るにはイニシエーションを受ける決まりになっている、秘密めいた団体。
  • フランスの1995年の報告書でセクト指定されている団体とその関連。

改訂について

一度は信頼が置けると判断した団体が、主催者が変わった途端に豹変することもあるため、数年に一度は全面改訂する必要があります。言うまでもなく、権威主義に陥り、賄賂を貰って掲載するなどという暴挙に出てはなりません。万が一、高く評価していた教師や団体が、社会的な問題を引き起こした場合には、心ならずも片棒を担いでしまったことを謝罪し、責任を取るのが当然です。(それだけ審査を慎重に行わなければならないということです。)

協賛者募集

ご報告:募集は締め切りました。