感性と理性のどちらを大事にすべきかという話は、どの分野でもだいたい同じような結論に行き着くかと思います。例えば外国語を習得しようとする場合、勘が良くて「習うより慣れろ」というタイプの人は、会話がどんどん上達します。文法書を読んだりして頭で理解しようとするタイプの人は、いつまで経っても喋れるようになりません。ところが、感受性と積極性に頼って急速に喋れるようになっても、頭で理解していなければ徐々に忘れてしまいます。従って辞書を使って勉強を続けることによって初めて、言語の習得は盤石なものになるのではないでしょうか。そういう訳で第一に感性、それを理性で補う必要がある、というような結論になると思います。まったく同じではありませんけども、スピリチュアリティにおいても似たようなことが言えまして、頭で理解してるだけだと本物になりません。筋が良くて感覚的に入って行ける人だけが何らかの悟りを得ますが、そのままでは「私は悟った」という思いが無自覚的に膨れ上がって慢心してしまい、徐々にその悟りを失ってしまうケースが数多く見受けられます。失わないとしても知識がなければ適切な言葉で表現できなかったり、偏った情報を他人に伝えてしまったりする虞があります。「自分はすべてを知っている」と思うような時は危ない、と老子のような大覚者も戒めている(『道徳経』71章)のですから、何らかの悟りを得た後も、それを盤石なものにするためには精進する必要があると言えるのではないでしょうか。