修行とか修養とかいった考え方は、何でも簡単に手に入ることが求められる今現在のスピリチュアリティの中では、何だか厳しく古臭いものと捉えられがちだと思います。確かに、あくまで私個人の意見ですが、ある種の伝統的な苦行というのは、心身を痛めつけることによって幻覚を見ることが目的であった、と今となっては言えるものです。神秘体験と霊性の自覚というのは多くの場合似て非なるものであって、それはその修行をやっている人を見れば区別が付くものです。神秘体験や霊能力を興味の対象にしている場合、一般常識からかけ離れた言動をして、どことなく品がない印象を与える人になるものです(そんなようなティーチャーさんや団体は要注意です)。伝統的に「魔境」と呼ばれている状態です。じゃ正しい修行とは何なのかと言いますと、私が思うに、心をきれいにすることがすべてです。離欲と言うと哲学的に聞こえてしまいますが、要するに五歳くらいの子供の純粋さということです。すべてを捨てるとなるともちろん人間は生きて行けませんが、そうではなくて、大人のような欲望や策略が心から離れている状態を言うんであります。修行の方向性を間違えてしまうなら、いろんな努力は無駄に終わってしまうので、よくよく気を付けなければいけません。で、子供のように素直で純粋な心になれたらそれが悟りなのかと言ったら、もちろんそうではありません。そこまでが準備段階であって、最後の橋渡しのようなものが必要になります。でも、準備が出来ていない限り橋渡しをすることは無理なのです。なので、人それぞれ心をきれいにするための色々な修行が必要になるというわけです。