自分の居場所を見つけるとか探すといったことは、日常会話でよく聞かれる話です。家を買うとか建てるとかいった時に、終の棲家という表現もよく聞かれます。そんな風に私たちはいつも落ち着く先を探してるようなとこがありますが、驚いたことにスピリチュアル的に言うと、物質世界に私たちの居場所はないということなのです。ここは行動し完成するための通過点であって、そもそも落ち着くべき場所ではない、という身も蓋もない話になってしまいます。もちろん思考を止めるとか自我を消すといった教えは良い伝統なんですが、あくまで完成のための方法であり、完成そのものの姿ではないのであります。そこそのままが居場所であり、誰の所有いかんにこだわらないのが、完成した姿に近いということかも知れません。先祖代々の土地を奪われたとか、仕事のポストを奪われたとか、人間の闘争には居場所に関する事柄が多く含まれています。居場所にこだわらなければこんなに楽なことはないはずなのに、なぜかこだわって苦しんでしまうわけではないでしょうか。すべては法律上の話でしかないのに、土地や建物の所有権を持つことで物質生活が盤石になる、と私たちは真顔で信じ続けているのです。愛があるところが自分の居場所である、と気づけた人はいい線行ってると思います。それを一歩進めて、その愛を神様の方に向けられれば完璧だと思います。