この世に生まれて来たからには、果たすべき役割があるという考え方は、精神世界に限らずポピュラーだと思います。確かにあると思うんです。それは意識的に役割を果たそうとか考えたことがなくても果たしている人がいるし、大げさな理念を抱きつつも本来の役割は果たせていない人もいる、という風でしょう。年齢を重ねるごとに浄まって行くとか、いい顔になって来る人は、順調に役割を果たせていると言っていいと思います。だけど、使命という考え方に、これまたこの世的な成功失敗という尺度が加えられることで、本来の意味から遠ざかってしまうことが起こるんであります。多くのスピリチュアルティーチャーさんが、自分の使命を見つけることの先に、人生の成功があることを仄めかします。その通りになれば、それはそれでいいんです。だけど、使命を果たすことで社会的に成功するはずだ、そうに違いない、という条件づけが刷り込まれてしまうようです。「神様、どうか人を本当に幸せにする仕事のために私をお使いください」と常日頃祈るような人、あるいはきっかけさえ与えられればそういう気持ちになり得る人の数は、決して少なくないように思います。かく言う私自身が、その時々で使命と思ったことをやって来たつもりですが、全然成果が上がりませんでした。けれども、失敗というわけではないのです。物質を光明化する(ラビ・イツハク・ルリアによるティクンの概念)とか、使命というものを大げさに考え過ぎてしまっただけで、そもそも与えられた役割がそんなに大きくない人が大多数であるということなのです。若くて覇気がある人ほど、自分の使命を大きく考え、この道に賭けてみようという生き方に魅力を感じるかも知れません。仕事のことならそれでいいのですが、スピリチュアリティに関しては成功失敗の尺度で見ない方がいい、というのが私の観点です。インド哲学で言うように、行為の結果に執着しない態度を身に付けるといいと思います。つまりスピリチュアリティにおいては、見に見える結果が出なくても気にしないのが一番いいのではないでしょうか。最終的に何がよくて何が悪いのか、人間の頭では分かりにくいからです。