昔から、大覚者と呼ばれるような先生に限って、直接書き残した本がない場合が多いわけです。その理由を察するに、やはり文字だけではその真意が伝わりづらいからだったんだろうと思います。厳密な定義とは違うかも知れませんが、ここで仮に、口頭や直接指導で伝達することを口伝、教典を残して伝達することを書伝という風に言ってみましょう。口伝と書伝はそれぞれ性質が異なり、よい面と悪い面があります。口伝は以心伝心という訳で、師匠が弟子の状態を見ながら、ここはいい、そこは違うとやれるので、一番適確な方法だと言えると思います。一方で、師匠の側から見れば伝達が途絶えてしまうリスクがあり、弟子の側から見れば本物の先生を見分けられるのかというリスクがあります。最悪、カルトに引っ掛かって人生を棒に振る可能性もあるわけです。それに対し書伝は、あくまで文字を頼りに自分で進んで行くことになるので、理想を追い求めるのに上限がないというメリットがあります。一方で、教典に書かれた本来の意図とは全然違う方向に進んでしまっても、自分では全然それと気が付かないという問題があるのです。違ってますよと指摘してくれる人が誰もいないので、そのまま「辿り着いた」と思っている人も出るかも知れません。だから歴史的に見て、書伝は分派が出来やすいんであります。いずれにせよ、何か外側に権威や規準が置かれており、そこを通過しなければダメだという話になった場合、一体誰が何のためにこんなことをしてるんだろうという疑問に、最後は収束するのではないでしょうか。私はそう思います。結局、弟子として極めて優秀で、これ以上ないくらい真剣に修行しても、自分はそもそも何を求めているんだろうという疑問にケリをつけない限りはダメなのだろうと思います。よく言われている通り、軸とか信念といった部分です。私もこの年になって、自分は信念がないからダメなんだなと思うんであります。幸せを大切に考えるんであれば、自分で方法を工夫してやってかなきゃいけないし、成功したいんであれば信念を持たなければダメ、実は悟りに時間はかからないと言うけど本当だな、と思います。自分で信念して疑わなければ、何事もその通りに行くに違いありません。